でもまあ、しかたない (現成公案)

 昨日、私が書いたエントリーの道元への言及の部分について、

 「道元の和歌は「現成公案」と読み取るべきでしょう。御一考を。」という御指摘をいただいた。

 率直に述べさせていただくと、道元が生きていたら、こういう言葉に触れた瞬間、「何もわかっちゃあいないなあ、でもまあ、しかたないなあ」と思うような気がする。

  道元の歌は、当然「現成公案」の思想がこめられているし、私の解釈も、その考えにもとずいているが、「現成公案」と読み取ることが大事なのではなく、自分自身がまず、日常生活の実践を通して、この宇宙を「現成考案」と体感し、それをただ認識するだけに留まらず、その価値を実際に具現化していく境地に至ること。その時にこそ、道元の歌の深いところに共感できるのであり、道元の歌に、一般論としての「正しい説」は必要ないのだろう。現成公案という言葉を使わず、自分の生活感覚のなかから、道元の歌にはてはまる言葉を導きだすことの方が重要だと思う。


 「現成公案」という言葉の意味は、一般的には、「現実は、どうのような状態であれ、たとえ人間にとって不都合であっても、全て過去の成果であるという意味で完全であり、全て取捨選択等せずに、まともにその事実をそのままそっくり受け入れること」と解説されるのだろうが、それをただそのように頭で認識するだけでは、道元の境地は理解できないと思う。

 私たちには、自我がある。煩悩もある。分別もある。それらが生じるのもまた、「全て過去の成果」という意味で完全であるなら、それを受け入れることも必要になる。ならば、自我、煩悩、分別がある状態で、「現成公案」を素直に受け入れることは可能なのか。分別があるかぎり、それは難しいと思う。といって、それを抑え込もうとすればするほど自意識過剰になって、不自然になり、よけいに難しくなる。

 にもかかわらず、「現成公案」を日常生活全体に及ぼし実践していかなければ、道元の境地がわからない。

 私たちがこの宇宙に生かされていることを素直に感じ取って、好むと好まざるにかかわらず、自分に関わってくる現実を選り好みせず全部そのまま受け入れて、これに随順していくこと。頭でそう理解するのは簡単でも、日常生活を生きる上で素直にそう感じとりながら実践していくことは、とても難しい。

 私たちは、現実社会を生きていくうえで、様々な予期せぬことに出会い、心が動揺する。疑ったり妬んだりする。自分に無いものを欲し、在る物が無くなっていくと、それを惜しむ。そして未来を憂う。世の無常を嘆く。

 しかし、人間は単純なもので、悪いこともあれば良いこともあるという感じで、嬉しいことがあれば、それまで悩んでいたことがバカらしくなることもある。だからいかにうまく気分転換することが大事かという処世も流行る。消費や享楽によってガス抜きをして、ポジティブに気分を切り替えようともする。

 それを繰り返していくうちに、人生なんてそんなものだと、人生の良いこと悪いこと全てを受け入れる心境になることもある。「何ごとも縁だ、考えてもしかたない、何があろうが毎日を一生懸命に生きるだけだ」という境地に至って、「現成公案」に近づいていくということもあるだろう。日本人のメンタリティの底辺には、そういうものが強く流れている。こうした考えは、仏門者でなくても、日常感覚に根ざしているがゆえに、比較的受け入れられやすい。

 などと、私が「論」を展開することも可能だが、けっきょくそれは私の理屈でしかない。

 とりわけこのような人生訓を年老いた人が若い人に説いても、理屈にしか聞こえない。理屈に対しては、「いやそうではないだろう」という理屈がいくらでもつきまとってくる。生きている背景が異なれば、すなわち見方が変われば、別の理屈はいくらでも生じる。

 理屈に理屈がつきまとってくることもまた因縁だからそれを素直に受け入れればいいのだろうが、「おまえも年をとったらわかる!」、「おまえは人生経験が足らない!」、「おまえは本を読んでいない!」などと憤慨して、理屈と理屈が戦っているうちに、心の有り様が、「現成公案」からほど遠いところにいってしまい、いったい何のための戦いなのかよくわからなくなる。そういうことは人生でもよくあるし、学問の世界でも多いだろう。自分の論の正当化に一生懸命になるあまり、データを捏造したり、自分の名誉のためにライバルを出し抜いたり、けっきょく、どちらが早く知ったか、どちらがたくさん知っているかの競争になり、いったい何のための学問かわからなくなってしまう。

 だから、「論」を煮詰めることが大事だとしても、その「論」に拘泥するのではなく、ぎりぎりのところで、うまく跳躍しなければならないのだろうと思う。

 道元にしろ、芭蕉にしろ、凝縮した表現行為を通して、跳躍する術を心得ていた。

 自我や分別があるゆえ(言葉を使用することじたいが、自我と分別がある証)に生じる様々な葛藤や憂いによって熱くなる心を、巧みに昇華させる表現。

 「さびしがらせよ」とか、「冷やしかりけり」という言葉の力によって、自我分別によって分離した宇宙と自分が、もう一度一つに溶けあう。自らの表現の力で自分と宇宙を再統合することではじめて、現成公案を矛盾無く体現するということなのだろうと思う。

ちなみに、現在書店に出ている「風の旅人」第28号 FINE EXISTENCEのチラシのコピー、

「全ての存在は、その時ならではの繊細な関係の産物であり、世界は、固有の関係で生じる無数の存在が微妙に影響し合いながら成り立つ。全ての関係は変化していく定めにあり、それに応じて世界も多彩も極めていくが、変化全体のプロセスは、常に同じことが繰り返されている。」

 27号のWANDERING LIFEのチラシコピー、

「生命の営みは、劣っていた状態から少しずつ発展してきたのではなく、特定の人間が絶対に正しいと主張する原理に導かれた筈もなく、刻々と変化していく状況のなかで様々な試行錯誤を繰り返しながら、様々な関係に基づく様々な存在の可能性を得て、整えられたのだろう。」

 26号のLIFE ITSELFのチラシコピー、

「この世の営みは、どれ一つ単独で存在できるものはなく、常に他の何ものかと交互に影響を受け合いながら、その局面だからこそ成り立つ奇跡的なバランスのなかで、「死」と背中合わせの「生」そのものとして完成している。」

 24号のROUND LIFEのチラシコピー、

「死があるからこそ生は輝き、生があるからこそ死が厳粛になる。喜びと悲しみもまた、お互いに深め合う関係として表裏一体である。この世の一切のものは、単独で存在するための合理的な原理を持たず。様々な原因と条件が寄り集まった繊細なる総体として成立している。」 

 23号のOWN LIFEのチラシコピー、

「この世に生を授かったものは、時と状況に応じた関係を結んでいく。生きることはすなわち、関係を積み重ねることである。一つの関係は、偶然と必然が微妙に合わさったもので、同じものはない。だから関係を積み重ねた「生」も、それ自身で唯一となる。」

 

 などを通して、私は、自分なりの言葉で「現成公案」のようなことを論じ続けている。「風の旅人」を作るに当たって、まさしく「現成公案」のような考えが底辺に流れている。しかし、この時代に、「現成公案」などという言葉を使ってもしかたがない。

 こうした「論」は、けっきょく「論」にすぎず、私たちが実際に生きている現実世界のなかで、なかなか感じとれない感覚でもある。

 だから「論」だけではだめで、具体的な跳躍が必要になる。その跳躍が、今の私にとっては、「風の旅人」なのだろうと思う。

 「論」を頭で理解するのではなく、言葉と写真を眺め渡すことで、俳句のように、短歌のように生じる風景のなかから、「現成公案」のような感覚を伝えたいのだが、簡単にはいかない。でもまあ、しかたないと思っている。