視覚と身体と写真

 とある写真展で、写真家と思想家のトークがあった。

 この写真家の撮影スタンスは、「できるだけ実際の目に見えるように、プリントの上に風景を再現すること」だと言う。極力、自分の気配を消し、自分の思い入れや意識を入れずに、自然体で・・・。

 その写真家が撮った写真の現場に、つい最近、その思想家が訪れた。そして、写真から受けるイメージと、自分がその現場に立った時のリアリティの違いがあると正直に述べた。

 思想家は、その違いを批判しているのではない。写真には、写真のなかだけで成立する表現の自律性があるけれど、実際にその現場に立ってみることは、作品を見る上で、何かを付け加えることになるということを話した。

 この思想家の視点の懐は深く、何がよい写真か、感動させる写真かということを絶対的な尺度で考えるということはしない。

 作品一つ一つの固有のありかたに入り込むことを心がけている。

 今回の展示作品が、一見「家庭のアルバムにある一般の記念写真と同じように見えるけれど、よく見れば全然違うね」と当たり障りの無いところで褒め、そこから焦点を広げながら、視覚のこととか、日本人の感受性に関する話しを深く展開していった。

 それはさておき、写真家が、何の恣意も入れずに、実際に目に見えるように表現しようと徹したものと、実際にその現場に立った思想家の見え方や感じ方は異なってくる。それぞれの過去体験が違うのだから、表現の視点もちがって当然だが、何ゆえにそこまで違ってしまうのか、ということを私は考えてみたい。

 写真には写真の中で成立するロジックがあって、それに基づいて「作品」づくりに徹しているのであれば、実際との違いが出て当然だから、考える必要もない。(そういうニッチの落とし穴に落ち込んだ自己中毒的なアートは多い)。

 しかし、この写真家は、そのような写真のための写真を嫌い、誠実なスタンスでものごとをしっかりと考え、リアリティの再現と共有に忠実な人なのだと思う。だから、「違い」よりも、「つながり」を現出することを潜在的に求めているのではないかと思う。

 その誠実なスタンスのなかで、私が気になるのは、「実際に目に見えるように、プリントのうえに再現する」という言葉だ。

 今回のトークで、思想家は、私たちの「視覚」が削ぎ落としてしまっている多くのことを、いろいろな例をあげながら説明した。

 身体では感じ取っているのに、「視覚」が削ぎ落とし、見落とされるものがあるということ。すなわち、「視覚」だけに忠実になると、現場の多くの情報が削ぎ落とされてしまうということだ。

 思想家は、そこまでの話しをしたが、それを写真との関係で論じて一冊の本にまとめることは今は興味がないと正直に言い、それ以上の言及は避けた。この思想家はとても寛容で正直な人で、「視覚」が削ぎ落としてしまうものを言葉は拾い上げることができると信じて、自分は言葉の領域に徹しようとする。時折、自分が共感する映像に関して自説を述べるが、そのほとんどが、視覚が削ぎ落としがちなものを言葉でフォローするというスタンスであり、客観的作品解説は行っていない。おそらく全ての表現を発展途上のものとみなし、その現時点の到達点を査定するようなことはしないのだ。ただし、根本の姿勢として、不誠実なものは忌み嫌っている。

 だから、この思想家は、写真という視覚表現によって、視覚が削ぎ落としてしまうものを拾い上げることが可能かどうか、今はまだ自分のなかでうまく答えが見つけられていないと自覚し、そういう状態にもかかわらず分け知った顔で理屈を並べ立てることができない性分なのだろうと思う。だからこそ信用できる。

 しかし私は、現時点で写真を媒介にした表現ツールに深く関わっているので、そこのところに関しては、自分なりの考えと判断基準を持っていなければならない。

 この思想家が言うように、「視覚」は、実際に目に見えている世界を整理してしまい、それがゆえに、見落とすものも多い。それは事実そうだと思う。

 しかし、「視覚」というのは、「目」だけでなく、「脳」との関係で成立するのであって、世界を整理して削ぎ落としているのは、「脳」だ。その「脳」がなにかの意識に捕われればとらわれるほど、それ以外のものを削ぎ落としやすい。見えていないわけではなく、見えているのだけど、脳が整理してしまう。整理しないと、混乱する。脳の整理機能は、一つの防衛本能だと思う。しかし、“感動”というのは、脳の混乱を伴うものでもあるわけで、脳の整理機能が強ければ強いほど、感動もしずらくなる。

 意識的に「事物や風景を目に見えるように忠実にプリントに再現する」というスタンスは、そう意識した時点で脳の整理機能が働いている。既に自分が備えている視覚感覚に寄り添う表現となり、それ以外の可能性を削減する。自らの整理機能によって既に多くのものを削ぎ落としている脳の視覚状態に馴染む表現にとどまることを避けられないだろう。

 そういう写真を見ても、脳の混乱はおきないから、「おおっ」という感動もない。しかし、「視覚」に忠実な表現を心がけるという人は、「おおっ」と感動につながる作品をつくろうとするのは、表現のための表現であり、恣意的で不自然なものだという認識があるだろう。とても理性的で、その理性に誠実なのだ。だから、よけいに辛い。

 彼らは、現代アートが落ち込んだ表現のための表現というスタンスを放棄して、事実に忠実であろうと誠実に心がけている。にもかかわらず、冒頭の話しのように、その表現は、思想家がその現場に立った感じとまるで違うものになる。このように事実と写真という視覚表現のあいだに生じる大きな溝をどのように埋めればいいか。さらに苦悶は続く。

 今回のトークで思想家が語ったように、視覚が削ぎ落としている多くのものを、身体は感じ取っている。身体感覚が鈍っている人は、「目に見えるように忠実に表現した写真」を見て、自分が見てきたように再現されていると共感をおぼえるかもしれないが、身体感覚が鋭い人は、自分が感じていたものが写真に出ていないと思う。

 そういう人でも、「おおっ、これだよ!」と視覚的にも納得できる写真というものがある。身体の感応力によって既に脳が混乱している(つまり感動している)状態と、写真表現を通した視覚が、共振することがあるのだ。そうした写真には、それが恣意的か否かという分別を超えて、「目に見えるように忠実に再現した」写真視覚が削ぎ落としているものが写っている。言い換えるならば、目に見えにくいけれど確かにあるものが写真表現によって引き出されている。

 目に映るものを眺め続けるだけのスタンスは、あたかも自然体のようであるが、実際はそうではないと思う。移ろい続けるものを追う視覚情報はあまりにも膨大で、その全てを見ることなどできず、どうしても脳の整理機能が働いてしまう。

 では、視覚が削ぎ落としやすい大切なものを捉える写真家の感覚はどうなっているのか?

 私は、「風の旅人」を制作するにあたり、脳の混乱と納得がともに生じるような写真を選ぶことにつとめているのだが、そうした写真を撮る写真家と話しをする機会を通して私が感じるのは、彼らは「目」よりも、「身体感覚」が優先しているということだ。写真という視覚表現で素晴らしい成果を出している人たちだから視覚が優れているのは当然だが、その視覚というのは、視覚だけ独立したものではなく、彼らなりの身体感覚の影響をかなり受けたものだという気がする。

 だから彼らは、撮影現場などにおいて、視覚以前に、身体感覚が既にそこにあるものを見ている。目で何かを見て、気づいて、それを撮るのではなく、見る前に既に身体で見ていて、その見えているものと視覚が一致した時、シャッターを切っている。身体と視覚が一致する状態というのは、うつろい続ける視覚のなかで、光とか物の配置とかが、自分にとって絶妙の状態になることである。そういう写真を、理性的な写真家は、「狙った写真」とか「表現のための表現」と考えてしまうわけだが、そうではなく、それは自分の身体が見ているものを視覚に裏切らせない表現行為なのであって、それはその人にとって自然なのだ。

 そのようにして、身体が見ているものを視覚が削ぎ落とすことなく、写真表現として現出する。

 彼らによって、私たちが見逃しがちなものが視覚表現として差し出された時、私たちの脳の視覚領域は、自分が整理しているものと異なるから混乱する。しかしもし身体に記憶があれば、視覚整理によって封じ込められている記憶が刺激され、そのモヤモヤが明瞭な形となり、すっきりもする。混乱とすっきりが重なって、感動と納得が得られる。写真表現という視覚表現は、そのように「視覚の整理」によって封じ込められた身体記憶を活性化させ、その活性化によって、視覚の幅と奥行きを広げる可能性も持つ。すなわち新たな認識を得て、世界が広がる。

 表現にはいろいろ回り道があって、いろいろ考え尽くすことも大事なのだろうが、最終的には、自分が対象物によって心動かされるという自分にとってのリアリティを大切にして、その対象物への思いを忠実に再現しようとすることが、視覚という強いバイアスに閉じ込められた身体性を解放して、新たな眼差しを獲得することにつながるのだと思う。視覚表現の意義は、そこにあるのだろうと私は思っている。

 そうした行為は表現のための表現なのではなく、身体にとって自然なことであり、身体は自然の産物ゆえにそれに添うことは、「作為」ではなく、「自然」にかなうことなのだろうと今の私は考えている。