出来事の到来と芸術体験

 アクエリアンさん、コメントありがとうございます。

 何げなく書かれていることですが、深い意味があり、簡単に返答できる内容ではありません。私は自分の考えを自分の言葉でしか書けないので、お返事がダラダラと長くなります。ご了承ください。

 アクエリアンさんが「芸術は、それを見るとき、直接的に伝わってくるものがあります。それがすべてだと思うのです。」とコメントに書いているように私も思い、その感覚で「風の旅人」を作っているのですが、その感覚の背景を少し説明する必要があるかもしれません。

 まず、「何を表現しているか、それがどういいか、だめなのか、ということを言葉で言い、難解な言葉が踊りはじめる」という批評界の状況に関するアクさんの懸念について、私の考えを述べたいと思います。

 世の中には、A「世界は、自らの心のなかに在る」と思う人と、B「世界の中に自らが在る」と思う人がいます。前者にとっては、自分の心に響いてくるものが「世界」となり、その中で「出来事」は生起していきます。

 しかし、「世界のなかに、自分が在る」という認識が強い人は、世界全体が関心事です。自分を知るためには、まず世界の全てを知らなくてはならない。最初から世界を知ることなどできませんから、常に「仮定」から入ることになり、「そうであるか、そうでないか、それがどういいのか、だめなのか」という問いが果てしなく連続していくことになります。この果てしない問いのなかにいる人から見れば、その問いを放棄して充足している人は、世界の可能性の幅を狭めている欺瞞者ということになります。

 そして、前者は、社会の中で自らの役割を決定して精進していくことを潔しとしますが、後者は、社会の限定された役割のなかに自分を固定して可能性を狭めることを嫌い、社会的に適応が難しくなりがちです。

 前者は社会の悪徳を嫌いますが、後者は、善良さに隠れた欺瞞を嫌い、欺瞞よりも悪徳の方がまだましだと思うところがあります。だから平気でナルシスティックな悪徳に走れる。悪徳の方がマシだとする理由は、ナルシステックな悪徳は罪の自意識で傷ついているのに対し、善良な顔をした欺瞞は、馴れ合いのなかで「悪」を行い、それに対して無自覚で自ら傷つくことがないからです。

 実際に私たちの社会において悪徳は目立ち、非難されやすいですが、マスコミなどに典型の善良な顔をしたモラルの無さは、悪に見えにくいため、根が深い問題になります。

 そして、現在社会には、AB二つのタイプが混在しているのです。社会的に分かれるだけでなく、個人の心のなかでも、その二つが、人それぞれ異なる配分で存在しているのではないかと思います。

 自分の心のなかに世界が在ると思う人のなかで極端なケースは、自分の身辺のことだけが大事で、それ以外の世界の全ての現象は、ワイドショーのような他人事の出来事になります。

 そして、その逆の極端な人は、世界の全ての現象に対して仮定の問いを積み重ねて、自分の心の在処がまったく見えなくなり、分裂症に陥るでしょう。

 多くの人は、その二つの傾向が微妙に混じり合いながら、バランスを保ちながら生きていくのでしょうが、どちらか一方に少しでも偏ると、その方向へのバイアスが強くなって(自分に合った性質のものを選び取って)いきますので、偏りが強くなっていきます。たとえば、大学の文学部から企業に就職した途端、文学や芸術や思想や世界情勢や歴史などいっさい関心がなくなり、自分の仕事と関係のある情報だけに関心を示すことがよくあるように。

 またその逆の人は、たとえばアカデミックな世界に入って、書物の中だけの世界で自問自答を重ねながら、ますます言語世界のなかに入り込んでいき、やがて問いによって解を求める精神もなくなり、惰性で、難解な「言葉」を弄ぶ輩もいるでしょう。

 このように二極に分裂した時代の表現物は、「自分の心の中に世界が在る」と思いたい大勢の人に媚びた「狭小に限定された世界と自分との関係」を表すものになるか、世界の中に自分が在るという人の無力感と共振する「広大で複雑な世界と自分の無関係さ=所在無さ」を表すものの両極に分かれやすくなり、実際にそうなっています。

 後者を純粋に究めれば、前者の表現は、自分の都合のよいところで世界を限定している安易さとなります。もしも今日の複雑怪奇な世界に対する誠実さを究めるのならば、世界の前に自らの無力と所在の無さを提示する「死」しかない。しかし本当に死んでしまうと何も表現できないから、死のギミック=骨董化に殉じるしかないということになるのではないかと思います。

 前者から見れば、そうした振る舞いはナルシスティクな悪徳にしか見えません。言論や表現の世界は、AとBの二つの領域に引き裂かれているのですが、批評家の多くは、世界を分析する傾向が強いので、後者の傾向が強くなります。印象批評もまた、純粋的客観性に劣るということで、不誠実ということになるのでしょう。すなわち、世界の構造のなかで、その作品がどういう位置づけにあって、その構造のなかで意味があるのか無いのか、いいのか悪いのかが批評家のなかで延々と語られます。しかしその態度は、自らの存在証明が優先され、「事物」への敬意とは遠いものとなり、批評家傾向の強い者同士の競い合いや認め合いでしかなくなります。結果として、世界に関与できないものとなり、自らの無力感をつのらせる悪循環となります。

 このように世界と自分の分裂傾向が強くなると、「もはや出来事は起こらないのではないか」と感じやすくなるのかもしれません。「自分の心に世界がある人」にとっては、自分の心が動いた瞬間、「出来事」が起こっていますが、自分個人よりも世界に強く関心がある人にとって、その「出来事」は、世界の「出来事」ではなく、個人的なコトにすぎないからです。

 思想や批評の人は、「終わり」を告知するのが好きだからそうしているのではなく、自分が存在する「世界」というものを純粋に探求する結果として、そう考えざるを得なくなる思考のバイアスがかかっていくのだと思います。

 「世界」は、今や知識のうえで果てしなく広がっている。その不安から解消されるためには、知るという人間本来の衝動を放棄しなければならない。それは、不自然なことであり、不自然に生きることは、死んでいることに等しい。それに気づかない者は既に死んでいる。永遠に知り続ける態度を継続しながら不安からの解消をもたらすためには、パラダイムの転換をもたらす「出来事」が必要である。思想や批評の人たちにとって、世界の新しい出来事とは、そういうものなのしょう。

 世界全体としての「出来事」と呼び得るものが起こるとすれば、「神が世界と私をつくり、おそらく神の意図はこういうもので、私のなかにも、その神がいる」と感じられるものの現れしかない。

 つまるところ、「見ず知らず考えず、我ここに在り」ではなく、「見尽くし知り尽くし考え尽くした結果、我無し」でもなく、「見尽くし考え尽くし知り尽くし、ゆえに我在る」すなわち、「わかるということがどういうことかがわかる」という境地を教えてくれるもの。

 「見ず知らず考えず、我ここに在り」というのは、一件シアワセに見えますが、テレビや新聞で自分の知らないことやわからないことに触れるたびに心が不安定になる。

 「見尽くし知り尽くして、考え尽くして、我無し」というのは、心に喜びを感じられない。

 「出来事の終わり」を諒解するわけにはいかないが、そうした難しい状況にあることを認識したうえで、あえて、「死」のギミックではない新たな表現を探し求めること。

 世界のことが諒解できることによって心が安定し、かつ震撼するような喜びが感じられるような境地に向かって21世紀の表現者は表現を試みていくべきであり、実際に誠実な表現者は、そうした試みを真摯に続けています。

 アクエリアンさんは、難しいことはわからないと謙遜していますが、専門家として一つのことを極めてこられた経験と学識のなかで、「我、多くを見て知って考え、ゆえに我在り」という境地に近づいている方なのだと思います。

 私は、時々「専門バカ」という言葉を使ってしまっていますが、誤解のないように申し上げますが、それはアクエリアンさんのように専門領域に通じた人という意味ではなく、専門の中だけに耽溺し、その専門と、それ以外の世界や人間との関係性を考えることを放棄してしまっている人のことを指しています。アクエリアンさんのブログを見れば、そうではないことがよくわかります。

 専門バカになると、自分と世界の関係性が見えなくなります。そして「多くを知って考えた。しかし我無し」という自己が不安定になる結論に至る可能性が大で、そうした心の不安定さから、データーの捏造などが起こるのだと思います。

 そうではなく、人間や世界全体のことを深く考えながら専門を究めてきて、その結果として、わかるということがどういうことかがわかり、心の安定と喜びを知り、結果として「我在り」と思える域に至った人の世界観とか人間観が、これからの社会で重要になると私は思います。

 それは写真でも絵の世界でも同じです。経営者や研究者やスポーツ選手だってそうです。世界全体にアンテナを張り、それらについて様々な思いを持ちながら自らの専門性を究めてきた人は、心が安定し、心の喜びを感じ、かつ世界に対する深い見識を備えています。彼らの表現には真の意味で強い生命力が宿っている。この生命力こそが、肉体的生存維持だけを生命とみなす今日の生命観に対するパラダイムの転換を促すのだと思います。

 そして、これからの世界にとって「出来事」となるものは、その種の新しい生命観に裏打ちされたものだと私は予感します。

 それらの表現は、単なる自己表現でもないし、世界の表層の描写でもないし、死のギミックのようなトリビアルな現象提示でもない。世界と個が引き裂かれている現代世界のなかで、個々の関係と、個と世界との関係を編み目のように新たにつなげていく可能性を秘めたエッセンシャルなものです。

 そうした作品は、現時点では、アクエリアンさんのように自分と世界の関係性を何となく掌握し、熟慮断行できる人に強く感応します。なぜなら、そういう人は、いろいろなことを見て知って考えたうえで、「芸術は、それを見るとき、直接的に伝わってくるものがある。それがすべて」と言えるだけの心の安定を備え、自分の感じ方に信頼を置いているからです。

 しかし、多くの人は自分の中に指針がないため、世の中の雑音に惑わされ、マスコミや批評家の評判に流されます。商業主義的な宣伝に惑わされ、杉本博司氏の作品を、不毛の完全主義という制作者の意図と逆向きに受容してしまう人も多いのです。

 「自分とフィーリングが合うものが好き」と自分に指針があるように言う人もまた、自分とフィーリングが合わないものを排除することによってのみ心の安定が得られるという不安定さがあるゆえ、自分の価値観が揺さぶられるほどのモノを恐れ、拒絶しがちです。

 そのようにして、生のパラダイムの変化を起こす可能性のある表現は社会の様々な夾雑物や不純物のなかに埋もれます。

 そうした社会状況のなかで、世界を見尽くし考え尽くし知り尽くしたうえで個と世界の関係性を掌握していると感じさせる人の表現を組み合わせ、夾雑物に埋もれないように力を増幅させて世の中に投じようと思い、私は「風の旅人」を作ってきました。

 しかし、私自身、「世界を見て考えて知ろうと思い続ける」というスタンスのなかで、大きく欠落していた部分があったことを、浅田彰さんという私にとっての反物質との瞬間的出会いによって認識したのです。今回のことで、それまで自分に実感がないからという理由で認めたがった世界(フィーリングが合わないものを排除することによって心の安定を得ようとする不安定さと同じ)にも、歴然たる摂理と必然があるのだという実感を得ました。

 

 私は批評家ではなく編集者というアレンジャーですから、このブログに書くことは、編集行為の背景でしかありません。「風の旅人」を見てくださる方に対して、「風の旅人」という表現物は、私というアレンジャーの手によって作られたものですから、ここに書いてある類のバイアスがかかっていますよ、そのことを承知の上お選びください、という缶詰の品質表示や野菜などの生産者表示のようなものです。(だから広報の一種であることは間違いありません。)

 それゆえ、世の中一般のなかで正しいか間違っているかを問うものではなく、私が現在思っていることの軌跡であり、それは日々、変容していく可能性を持ったものです。折にふれて起こるさまざまな感情であり、情思です。そして、この情思のなかに世界を取りこみ、世界全体を見直していく。そうしたダイナミズムの実践の場であり、その場からエネルギーを得て、「風の旅人」を実作していく。

 

 アクエリアンさんの言うように、芸術というのは、一つ一つの作品が正しいのか間違っているのか、良いか悪いかを分析して終わりにするものではない。

 世界を見て考えて知ろうと思い続けながら、心が安定し、かつ喜びを得る方向に自分を導いていきたいと少しでも願う人たちを下支えする力を秘めたものが、芸術になる。

 「それを見る時、直接的に伝わってくる、それが全て」と、アクエリアンさんは簡潔に言っていますが、“直接的に伝わる”という状態は、世界と私が表裏なく、濁りなく、不安もなく震撼できるということであり、まさにそれこそが芸術体験であると私も思います。