新しい意識、新しい出来事

 アクエリアンさん、真摯なコメントありがとうございます。

 がっかりなんて、とんでもないです。アクエリアンさんの仰っていることはよくわかります。私の書いていることがわかりにくいのは書き方が悪いのです。浅田さんの立ち位置と私やアクエリアンさんの立ち位置を混交させる形で書いているから、わかりにくくなるのだと思います。でも、この混交は私にとってリアルな必然なのです。

 浅田彰さんとの一件について、佐々木寛さんが好意的なコメントを寄せてくれ、それはそれで嬉しいのですが、浅田さんは斜に構える皮肉な態度で世界を見ているのではなく、浅田さんにとっての正面から世界に挑もうとしており、そのことが私なりに実感できたので、そのことを説明しようとして、ダラダラと書いてしまいました。

 一人の人間として生きていく場合は、子供や家族のことを含めて、当然ながら様々な「出来事」があります。

 しかし、思想でも芸術でもいいのですが、表現者として誠実に表現をしていく場合、そのように個人的な「出来事」でいいのかどうか。芸術家や思想家は、人間の意識の新しい地平線を開いていく役目を負っていると思いますので、個人的な「出来事」から普遍的な領域まで高めようと奮闘していない人は、表現者として足りないことも事実だと思います。

 過去においては、本物の芸術家は、たとえばレンブラントミケランジェロの作品と対峙し、それを超えることの困難さに打ちのめされ、それでもなお表現せざるを得ないという情動のなかで作品を作っていた筈です。

 科学というのは、偉大な先人が達成した業績を途中から引き継いで発展させていくことができますが、芸術家や思想家は、そういうわけにはいきません。過去においても、数多くの天才が、人類の意識の地平を目一杯に押し広げるような仕事の成果を残しているわけで、それを知ったうえで敢えて自分も表現者としての道を歩むのならば、先人の到達できていない領域を目指そうとすることが表現者としての純粋なのだと思います。

 ですから、世界に広くアンテナを張って十分に学習し、そのうえで、さらなる高みを目指している人は、過去に誰かが行ったような作品を見た瞬間にわかってしまいます。

 「そんなものは、もう出尽くしている、だから驚きはないよ!」と。

 今日のように多くのものが出尽くしている時代に表現活動を行うためには、過去や他人の作品には無関心な方が、精神的には楽です。最近では、写真家を志す人で一流の写真家の作品をほとんど見ていない人が多いです。そして彼らは「自己表現です」といって自分の撮った写真を見せますが、どこかで見たようなものばかりで、印象に残るものはありません。印象に残るものを撮っている人は、やはり、他者の作品のこともよく知っているのです。他者を見ることではじめて、自分を掘り下げることができますから。

 人間の表現の幅というのは、実はそんなに大した広がりを持っていません。ほとんどの人が、同じ意識の幅のなかで、似たようなことをやっています。しかし、芸術というのは、やはり、ONE AND ONLYでなければ、人間の意識の地平を広げるものになれないと思います。

 芸術は、表現する人の意識の幅つまり世界の認識の仕方が反映されます。ですから、ここが広がって深まっていかなければ、表現も、人間の現状を超えていけない。

 本物の芸術家や思想家は、自己表現のために表現を行っているのではなく、人間の意識の地平を広げ、ポテンシャルをアップさせて現状を超越していく力となるために存在してきたのではないかと私は思います。

 しかし、今日ではそうした力を芸術や思想が持つことが大変難しい状況になった。芸術家や思想家にも、そうした意識は弱くなった。その結果として、ガラクタのようなものが堆積するばかりとなった。芸術的価値ではなく、骨董価値に成り下がってしまった。その状況の中で、先人が行っていない表現は、「芸術が骨董価値というか化石になってしまった状態を表現したもの」だけになり、それを表現することが最後の芸術=出来事となる、という感じになってしまったのではないでしょうか。

 このような見識は、皮肉なのではなく、人類が行ってきた表現活動に対する造詣が深くなればなるほど生じるでしょう。多くの人がそのような造詣を持つことは難しいですから、一部の人が、全人類の表現の軌跡を全て眺めわたして、その軌跡のなかで現代という状況がどんな位置づけにあるかを伝えることは、やはり意義のある行為なのだと思います。次の一手を探求する志のある人に、現状を伝えるだけのためには。

 そして、現状をそのように捉え、現状だけに注視している思想家や芸術家は、世の中一般の人々が、自分の表現をどのように解釈しようが、意に介しません。意に介さないということに徹しきったうえで正しい現状認識を行い、人類の次の一手(本当に必要な出来事)のための純粋な状態を整えることが、自分の使命だと信じているのかもしれません。

 ですから、アクエリアンさんの言う「出来事」と、現状認識の強い思想家や芸術家が待望している人類史のなかの次の一手としての「出来事」は、別々のものになっていると思います。

 そして、私の認識する「出来事」について、述べさせていただきます。

 科学技術というものを手に入れた人間は、その成果によって、芸術や思想に関係なく、これまでの時代にないくらいに、意識の幅を広げています。意識が広がっているのですが、

その新しい状態を整理するための新しい世界観や人生観が整っておらず、それがゆえに、混沌としているのです。

 現代社会に問題があるとしたら、その意識の新しい段階に対応できる思想や芸術がないこと。思想や芸術が人間の意識の新しい地平を切り開いていくのではなく、科学技術によって知らず知らず切り開かれてしまった人間の意識の新しい地平を、一人一人が自覚できるものとして新たに定着させる表現こそが必要で、それこそが、「新しい出来事」なのだと私は思います。

 科学技術に関する情報を知って覚える程度のことでは、「意識の新しい段階」の自覚化にはなりません。それは、これまでの古い世界観や人間観を固定したまま、その枠組みのなかに情報を整理して押し込めることにすぎませんから。

 そうではなく、現代社会は、科学技術の発展によって、人間がこれまで信じてきた世界観や人間観が揺さぶられ、すでに新しい意識の萌芽は生じているのですが、それが<かたち>となって定着されないがゆえに、得体の知れない不安の中にいます。

 新しい芸術や思想は、その<かたち>を示すものでしょう。今までにない世界観や人間観が<かたち>になって現れて初めて、人間は「新しい意識」を明確なかたちで自覚することができ、その体験が、人間全般にとっての新しい<出来事>になるのではないかと私は思います。そして、この<出来事>は、人間全般という抽象的なものだけでなく、現在を生きる一人一人にとっても、大切な<出来事>となるのではないでしょうか。 

 そして、ここに述べた私にとっての「出来事」というのは、私が、「雑誌」という一つの表現行為を行ううえで意識している「出来事」です。

 私個人の日常においては、個人的な「出来事」が生じ続けることは、言うまでもありません。しかし、私の日常における個人の「出来事」は、あくまでも私個人にとっての「出来事」でしかなく、他の人にとってはどうでもいいものです。わざわざ人に示すほどのものではありません。

 しかし、その個人の「出来事」を、科学によって既に切り開かれてしまった人類の意識の新しい段階(自分と他者や世界との新しい関係づくり)につなげたうえで、この世界から目をそらすのではなく、世界を見て考えて知ろうと思い続けながら、心を安定させ、かつ喜びを得る方向に人間を導こうと奮闘している表現者もいます。

 そうした自覚に基づいて完成された表現は、個人の「出来事」でもあると同時に、人間の「出来事」でもあります。

 今日、「新しい出来事」と成りうる本当の芸術とは、おそらくそういうもので、それは、「出来事の終わり」となるものではなく、ポジティブな「出来事」を波のように伝え増幅させる力があるのではないかと私は思います。

 すなわち、新しい「出来事」というのは、不安の入り交じった状態のなかで希望を抱ける新鮮な心を現出すること。

 でも、私がここに書こうとしていることは、筆力の至らないせいでもありますが、ブログ日記で書ききれるものではないのだと思います。

 この言うに言われぬ思いを、「風の旅人」で表現していければと思います。