第990回  根源と全体を受容すること①

  20歳の頃、2年間の諸国放浪の前後、計り知れない影響を受けた人物が二人いた。一人は小説家、もう一人は映画監督。
 世界に対する視点、世界への向き合い方、掘り下げ方は、この二人の作品世界に触れたことで、かなり方向付けられた。それまで試行錯誤しながら色々な表現にアンテナを張って自分ごととして引き受けようと努力したが、どうにもしっくりこなかったが、この二人の作品は、自分の中でバラバラになっていた感覚と思考のパズルを統一した世界にする力があった。同時に、その表現の広がりと深さの前に、自分の浅さ、至らなさを痛感させられるものであった。この二人を、自分の精神世界の師匠と決めた。
 その時から二人の作品は欠かさず追いかけていた。そして10年の月日が流れた頃、小説家に手紙を書いた。
 「きみの考えていることは私の考えていることは同じだ」と電話をいただき、その時から、その小説家が亡くなるまで約10年間、月に一度くらいご自宅を訪れ、深夜遅くまで、宇宙や芸術や宗教や歴史のことなど、色々な話をさせていただいた。それは、自分の世界観を大きく広げ深めるうえで計り知れない修練になったと思う。
 そして、その小説家が、2001年のアメリカ合衆国内テロの後のことを憂いながら亡くなった後、ごく短い間に、色々と不思議な縁が重なり、雑誌の編集経験のない状態で、「風の旅人」の創刊した。思えば、創刊時において執筆を依頼したのは、白川静さんをはじめ、その小説家の影響で知った人が大半だった。
 そして、20歳の頃、強い影響を受けたもう一人の人物である映画監督の新作映画の完成を待って、手紙を書いた。その時、どういう内容の返事をいただいたかは忘れたが、その後、月に一度くらいの頻度で、風の旅人関係の作家や写真家や思想家など色々な人を監督に紹介し、飲みながら語り続けた。雪深い温泉で合宿も行った。監督の次回の作品のことがテーマだったが、それは、具体的な事物と精神の結び付け方の話だった。映画は、事物に即して精神を表現しなければならない。言葉のように、在るか無いかわからない抽象的な表現を積み重ねながら人々の精神に働きかけることなどできない。世界の事物に寄り添いながら、自分も含めて世界の事物が個々バラバラに存在しているわけではないことを示さなければならないのだ。
 その対話の期間も、およそ10年だった。それは、事物のリアリティを濁りなく感受し、誠実にアウトプットするうえでの真摯さを学ぶうえで計り知れない修練になったと思う。
 そして、昨日、監督が京都に出てこられたので久しぶりに会い、うちに泊まってもらい、2日間にわたり、たっぷりと話ができた。
 しかし、これまで長い期間にわたり、二人の師匠の計り知れない叡智に触れ、インプットさせていただいたという実感があるものの、そのことを何に対して、どのようにアウトプットしていくのか、まだまだ中途半端な自分を改めて認識することになった。
 それでも、このたびの二日間の対話の中で、これからの鍵となる貴重な言葉をすくい取ることができた。 
 それは、「受容」という言葉。
 「ありのまま受け止めること」。
 言葉自体は、難しい意味ではないが、とてもとても奥が深いもの。
 人間の意識は、自分と他者(世界)を区分し、他者(世界)を自分に都合よく解釈(インプット)し、その解釈にもとずいて、自分に都合よく行動(アウトプット)しがちだ。そのことが積み重なっていくと、知らず知らず、自分と他者(世界)は、分断されていき、意識として全体の統合が失われる。その結果、全体の中のごく一部に執着(妄執)し、全体との調和を欠いた不安定な存在となり、過剰な自己防衛意識、自己承認欲求の虜となる。
 
 インプットやアウトプットで、世界を分離しない。
 インプットとアウトプットのあいだも分離がない。
 そして、自分と事物と世界が分離されていない。
 そんな自分と、インプットとアウトプットを両立させることが、残りの人生の大きな課題であり、二人の師匠への恩返しなのだろう。