第904回 不易流行(続き)

「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」(西行

 伊勢神宮は変化を拒んでいない。持統天皇4年(690年)より1300年もの長きにわたり、20年ごとに建て替えられて、その姿を一新する。

 伊勢神宮を造る木に防腐剤など使用していないし、建造においても釘などを一切使用していない。そのため、20年ごとに建物を取り壊した後、それらの木を簡単に再利用でき、全国の神社で新たに生かされている。
 古代ギリシャ・ローマをはじめとする西欧の建築物からは、自然の宿命に逆らって「現在の状態」を頑なに維持しようとする人間の意思を執念を感じる。
 それに比べて、伊勢神宮の発想はまるで違う。自然の宿命に逆らうことはせず、かといって、変化するままに放置されているわけでもない。
 伊勢神宮は、20年に1度新しくなるが、周辺の森は常に古代の状態が維持されている。そして、神宮内で、毎日、古代と同じ方法で祭りが執り行われ、その数が、一年で千数百回もある。弥生時代の登呂遺跡から発掘されたものと同じ形式の、檜の板にヤマビワ製の心棒を摩擦して発火させる方法で火を起こして神々にお供え物を調理することなど、日々の行いから年間の主要な祭りのすべてが、古代の様式と同じだ。建物の外観は朽ち果てていく宿命を逃れることはできないから敢えて定期的に解体して作り直し、その中の活動は同じ状態を繰り返す。これはまさに、身体の細胞を入れ替えながら同じメカニズムを維持していく生命現象に共通するもので、古代人は、そういうあり方に、”永遠のいのち”を見いだしていたのかもしれない。
 日本の都市は、ヨーロッパの都市に比べて変化が激しく、計画性が無いと批判されることもある。しかし、どんなに外観が変わろうとも、その中の人間の営みには一貫したものがある。周りとの関係性に気を配りながら仕事をし、食べて飲んで眠る。そうした人々の特性が無数に集まって形になったものが社会の表層に、流行現象として浮かび上がるが、その形は固定されず、常に変容していく。だから、その時々で目に見えているものは、巡り合わせにすぎない。目に見えないからといって、無いわけではない。
 姿形が見えるものも見えないものも含めて複雑に絡み合った関係性の総体こそが私たちの生きている世界であり、一つの物事が成立する時、そこに無数の関係性が生じている。
 「いのち」というのは、おそらく、反発も引き合いも含めて、そのように物事と物事の関係性に生じるエネルギーの総体を指すのだろう。いのち全体から、その時々の必然性に応じて、微妙な力加減でエネルギーが分配され、個々の物事の動きが生じ、関係性が整う。植物であれ鉱物であれ昆虫であれ猫であれ生まれたばかりの赤ん坊であれ、全ては、その働きのなかにある。それらの関係性は、その瞬間だからこそ成り立つものであり、だからこそ掛け替えのないものとなる。

 そして、困難に直面した時に生じる心の疼きや、手探りするように何かを考え何かを成そうとする心の衝動は、その時々の必然性に応じて微妙に増幅する「いのち」のエネルギーの反映であり、それは宇宙に細胞や神経回路や遺伝子を作り出してきた力と根底的に通じているように思われる。
 今日の地球環境においては、人間の影響を抜きに自然のことを考えることはできないし、自然の影響を抜きに人間の未来を考えることもできない。
 自然も人間も含む大きな関係性のなかに人間同士の関係性である社会があり、社会全体と自然、および個人と自然との関係性が生じ、個と全体が結びついていく。
 地球という複雑で繊細な関係性の賜物のなかで生きていくために、どんな生物でも、相手をうまく生かしながら自分をうまく生かし、いのちを循環させる知恵を身につけてきた。
 この世に存在するものは、常に変容して姿形を崩していくが、その変わりに、必ず何か他のものを生かしていく。その厳粛な摂理を司るものが「いのち」であり、万物は、「いのち」に従った掛け替えのない関係性を築きながら、永遠に循環し続けているのだろう。
 芭蕉が説いている「不易流行」とは、まさに、そうした「いのち」と合一していく境地を指すのだろう。
 芭蕉に大きな影響を与えた西行は、平安時代末期から鎌倉時代への動乱の時代に、武士、僧侶、旅人、歌人と、自分のポジションを変転させながら生きた人間だが、芭蕉西行への尊崇は、まさにそうした全人的な部分に注がれていたことは重要である。単に、歌や俳句という伝統文化の歴史的系譜にとどまるものではないのだ。
 その西行伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる

「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

という歌は、とても有名だが、この歌は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「有機体は、それがそれ自身であるために全宇宙を必要とする。」という風の旅人の復刊第5号(いのちの文)の巻頭に掲げた言葉に通じるところもあるのだが、”かたじけない”という感覚に、よりいっそう日本人の魂の深みを感じる。
 ”かたじけない”というのは、恵みを感じて、生かされているという感覚であり、良いことも悪いことも恵みとして感じ受取っていく底深い知恵であり、平安末期から鎌倉という末法思想が流行った時代に、禍福は糾える縄のごとく、意識転換を促す創造行為であり、これは現在に至るまで日本人の中に脈々と流れている。
 ちょうど西行芭蕉のあいだの15世紀に浄土眞宗再興の立役者として活躍した蓮如は、”かたじけなさ”のことを、『冥加の恩』と言う。「冥加」の冥は、直接眼で見ることの出来ないもの。加とは加被力のことで、眼に見えない力によって自分が生かされていることを知らされること。
 「自分を大切にする」という言葉を使う時に、この眼に見えない力によって生かされている自分のことを気づいていないと、単なるエゴになってしまう。
 不易流行は、そうした諸分別によるエゴを滅却させ、生の歪みを矯正する知恵の中の知恵。
 不易流行と、”かたじけなく、生かされている”という感覚は合一になる。
 西行が、伊勢神宮に感じたものは、伊勢神宮というあり方が、まさに不易流行であり、だからこそ、眼に見えない力の恩恵が、より鮮明に浮かび上がってくる場だからだろう。


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