第913回 ”かたじけなさ”と、日本のかけがえのない精神風土

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 8月8日、今宮神社の中にある織姫社で、織姫七夕祭を斎祀ることを奉告御祭に参列した。しばらく途絶えていた織姫祭を来年から復活させることが決まり、その報告を神様にする祭りだ。
 世の中には、色々なタイプの祭りがあるが、最近では地方自治体などから助成金を得るために、集客数とかメディアへの露出が重要だとかで、イベント性を強めたものが多くなったり、厳粛な場にテレビカメラが傲慢な顔で踏み込んできたりで、祭り本来がもっていた非日常的な雰囲気の中で気持ちが切り替えられるようなものが、とても少なくなった。
 祭りを担っている人達も、衣装や仮面だけ着用しているものの、緊張感がなく、ダラダラ歩いていたりして、ただの仮装行列にしか見えないものも多い。なんとも残念なことだ。形ばかりのものを残すくらいなら、やめてしまった方がいい。
 なぜ、伝統的なものを残す必要があるのか。それは、私たちが生きている世界の時間が均一ではなく幾層にも積み重なっていることを実感するためだ。時間の積み重なりというのは、ただそこに古いものが化石のように存在しているということではない。古いとか新しいとかの分別は関係なく、自分がよく知っている時空とは別の時空にも生と死の真剣そのものの世界があるということを実感することが大事なのだ。
 自分がよく知っている時空の中で、自分は、食べて生きていくために、その時空の価値観にそって真剣に働いたり活動したりする。その時空の価値観にそっているからこそ、自分の努力は、報いとなって返ってくる可能性が高い。(一生懸命に働いたら賃金が得られるとか、一生懸命に勉強したらいい学校に入れるとか)。
 しかし、そのように自分がよく知っている時空の価値観だけが真剣に生きるに値するもので、それ以外の時空は、ただの気晴らしとか息抜きにすぎないと決めつけていたら、もし、自分がよく知っている時空のなかでいくら努力しても結果が伴わない時、すぐに行き詰まってしまう。
 世界が標準化され、均質化され、その価値観に添って生きることを強要するような空気が支配的になると、その時空のなかでうまく適応できていれば生きていられるが、適応できなくなってくると、とたんに白い目で見られたり、排除されたりする。また、うまくできているような時でも、そういう状態がいつまで続くだろうかと不安に襲われたりする。
 自分がよく知っている時空以外にも、真剣な場が存在するということを実感するためにも、古いもの、伝統的なものが残っていることが必要だ。
 能とか文楽なども、形ばかりのものが残されていて、そこに真剣味がないようなら、残していても意味がない。真剣味というのは、単に真剣に稽古するということではなく、真剣さのベクトルが、こちらの世界の価値観から見ればちょっと異様なくらいのものが必要だ。なんでそういうものにそこまで真剣になれるのかと戸惑わされるようなものが、世の中に多ければ多いほどいいと私は思う。 
 歴史的建造物などを見る時も、宇宙人が作ったのかもしれないなどと言われたりするような、こちらの現実ではちょっと計り知れないスケールとか、こだわりとか、つまりミステリアスであればあるほど(宇宙人ではなく人間がつくったと私は思う)、人間である自分が、まだまだ理解できない人間の力というものがどこかに存在することを想像できるのだ。
 祭りもまた、単に豊作祈願などこちらの現実における処世的なものではなく、異次元の扉がそこに開いているような感覚が得られないものは、祭りとは言えない。こちらの現実の事情にそったもの(集客数とか、人に知られるためのメディアへの露出とか、助成金を得るために役人を納得させる企画)で行われているものは、祭りというよりは、ただのイベントなのだ。
 いずれにしろ、8月8日に今宮神社で執り行われた織姫祭の報告祭は、最近、全国各地で増えている騒がしいばかりの祭り(イベント)とは異なり、静粛で心清まる雰囲気のなかで厳かに執り行われた。
 この織姫祭の準備委員のなかに、京都に移り住んでまもない私もくわわっているのだけれど、現代社会は、世俗の塵にまみれて穢れ(気が枯れた状況)た心を、晴れの力(はらい)でリセットする祭りという装置が、本来の役割を取り戻さなければならない歴史的な瞬間にきているのではないかという気がする。
 気持ちが萎えてしまうと、多くの人は、カラオケや遊園地など娯楽で気分転換をはかる。しかし、それらは、どちらかというと、「ハレ」ではなく、「ケ」に寄り添う処世的なものになってしまっている。
 なにが違うのかというと、そういう娯楽は、個人主義的な装置であるのに対して、祭事は、共同体の活性化の装置であるということ。
 そして、単なる娯楽は、大きな時間の流れを、その享楽の時間だけ切り取って固定してしまうのに対して、祭事は、祖先の時間から現在、そして未来へと連なる時間を意識させること。大きな時間の中で我々は生かされているという感覚はとても重要だ。
 さらに、「自然との関わり」が鍵であり、今日的な多くの娯楽は、自然との関わりを完全に断った虚像世界であり、祭事というのは、自然との関わりを見つめ直し、人間もまた自然の一部であるということを想い出させる。
 自然というのは、思い通りにならないことも多い。そして、仕方が無いと思うようなことも多い。「仕方がない」というのは、諦めであり、赦しでもある。「仕方がない」というのは絶望ではない。ずっとダメなことばかりではなく、恩恵も必ずある。そういう摂理を知って、次があるさと素直に思える状態が、「仕方が無い」なのだ。
 それは、宿命に生きるという意味にもつながる。
 「宿命に生きる」という考えは、今日の個人主義の価値観の中では、消極的で受け身ということになってしまうかもしれないけれど、そうとは限らない。そこには、わずかな可能性の中でも生きる力を見出していこうとする祈りに似た気持ちが反映されている。つまり、自分が陥っている状態に心をとどめず、気持ちを切り替えようとする意思を含んだ言葉だ。

 「もののあはれ」を知ることも、単なる無常観ではなく、西行の言葉によれば、「およそあらゆる相これ虚妄なること」を知ることで、心を一つの概念に固定させないということになる。 

 ”もの”は、漢字が入ってくる前は、物でもあり、霊でもあった。
 「物」という漢字も、今ではただの物体という意味でしか受け止められていないが、そもそもは、「牛」と、「勿」 だ。
 「牛」というのは、古代、豊穣のシンボルであり、人間にとって最も大切な生物であったが、その牛を敢えて生け贄として神に差し出していた。だから、「犠牲」という字にも、「牛」という字が入っている。
 そして、勿は、「勿体」ということで、「勿体」 というのは、もともとは仏教用語だ。
 世の中の物事すべては、みなお互いにもちつもたれるの関係で、自分単独ではありえない。すべてが多くの縁でつながっている状態。すなわち、「おかげ」ということ。だから、「勿体ない」は、その「おかげ」の一端がちょっとバランスを崩しているように感じ、申し訳ないと感じること。つまり、「かたじけない」、という恥の感覚でもある。
 「もったいない」という言葉を、単なるケチとか、節約という意味で捉えていたら、大きな間違いであり、「勿体ない」には、恥の概念、申し訳ないという感覚がないといけない。

 物は、「牛」という神と人間のあいだをつなぐ生物と、すべては縁でつながっているという「勿」の合体であり、「もののあはれ」というのは、おそらく、そういう世界の摂理を自分事として受け止め、それを愛しいと思う感覚のことだろう。その感覚は均質でなく、無限のグラデーションがある。なぜなら、縁のつながりというのは、多種多彩だからだ。
 そうした多種多彩なグラデーションを愛しいと感じながら生きることが「もののあはれ」であり、それが、宿命に生きるということだと思う。

 この「もののあはれ」の本質を、もっともよく表している歌の一つは、西行伊勢神宮に参った時の、
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
 だと私は思う。
 
 みずからの存在をかたじけないと感じられる瞬間というのは、ちょっと恥じるような情けないという感覚と、有り難いという感覚の両方が混じっている。
 その感覚は、人間のように自然の摂理を壊しがちな生き物にとって、極めて重要なものであり、日本人がその感覚を、もしまだ維持し続けているのなら、それこそを大切に維持すべきだ。
 日本の伝統や文化を誇るべきだと主張し、愛国を唱え、外国の脅威を喧伝し、道徳教育を強化しようとする政治家に、この「かたじけない」という気持ちが欠けていれば、彼らの多くの言動は、すべてまやかしであると断言してもいい。(この感覚の真逆の心しか持たない人が、現代の政治家に多いことが一番の問題だ)。
 「かたじけない」という気持ちは、大いなる自然の懐の中で育まれた、かけがえのない日本人の美質であり、祭りを含め様々な伝統的な芸能、そして現在の各種表現などにおいても、この精神風土を見つめ直し、耕す時空を生み出して欲しい。

  個と個が断裂し、今と過去と未来が断絶し、生と死が断裂した状態で、いのちに力を与える”はれ”の時空は、ただの憂さ晴らしではない。誰でも、自らの生には限りあるのだけれど、その限られた生を、自分のためだけに消費するのではなく、何かしらの形で次につなげていき、永遠の流れの中の今として解釈し直し、位置づけていける時空だ。
 そのためには、自分が今ここにあることの”かたじけなさ”が、軸になってくるのだろうと私は思う。

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