パパタラフマラの舞台と身体と、現代社会

 昨夜、パパ・タラフマラ新作公演「スウィフトスウィーツ」を、調布のせんがわ劇場で見た。
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 よくもまあ、このように隅々まで混沌としていて、隅々まで丁寧に配慮した世界を作り上げるものだと、本当に感心する。まさに、完璧なるナンセンスの世界。 
 今回の作品は、「ガリバー旅行記」など誰もがよく知っている作品の作者ジョナサン・スウィフト自身に焦点を当てた作品の最終章。
 スウィフトが生きたのは、1667年から1745年。パパタラフマラの演出家の小池博史さんは、遠い過去の出来事ではなく、現代に通じる問題として、スウィフトの人生に焦点を当てる。
 しかしながら、実際には、スウィフトの時代と現代は、反転した関係にある。
 
スウィフトが生きた時代は、ヨーロッパにおいて宗教戦争が終わり、国家間の戦争へと突き進んでいく時代である。ニュートン(1643〜1727年)が近代
科学文明の基礎となる論理を確立していく時期である。モンテスキューヴォルテールなど啓蒙主義思想が生まれ、科学的発想を受けて、自然科学の発達を背景
に合理主義的批判精神に基づいて、政治・社会・宗教などの不合理な伝統や権威の打破をめざす思想運動が広まっていく時期である。

 
フランス革命(1789年)も産業革命も、スウィフトが生きた時代に形成された新しい人間意識に基づいて生じたものである。つまり、スウィフトが生きたの
は、現代文明社会の揺籃期であり、私達とは真逆の位置だ。しかし共通点はある。それは、一つのパラダイムが終わる時、すなわち人間が、社会を覆う一つの夢から目覚める段階であるということだ。

 
スウィフトの時代、それまで普遍的で絶対的な価値(神を中心とする世界観)とされていたものが急速に壊れ、人間が生の拠り所を失い、宙ぶらりんになっていた。その混沌状態のなかで、自分自身の生のリアリティに忠実に生きようとし、かつそれを表現しようとすれば、風刺と
逆説がたっぷり詰まったものにならざるを得ない。そして、それは屈折したものであればあるほど生き生きと魅力的なものになる。なぜなら、社会の脆弱な価値観の忠実な僕となって生命力を殺がれるのではなく、現にここにある自らの時間の実感を生命の拠り所としていく熱烈なスタンスが、そこにあるからだ。

 スウィフトの時代と真逆でありながら、私達の時代も転換期を迎えようとしている。
 世界から、絶対的な価値や意味や目的が失われつつある。西欧近代主義によって刷り込まれた直線的な時間感覚にそって、始まりから終わりまで少しずつ階段を登って行くような単純化された時間像なんて嘘っぱちであることに、私達は、薄々気づき始めている。
 私達の営みは、意味もなく、その時点ごとに完結する、現にここにある生のなかにあり、それを無限に繰り返している。
 
現代人は、全てのものに当てはまる公理があるかのように錯覚し、それを発見する競争に明け暮れ、主導権争いをし、勝った者の公理を教育などによって全て
のものに当てはめようとする。しかし、そのように定められた公理など、時が経てばまた新たなる公理にすり替えられてしまう。そうした偽りの普遍的公理か
ら、また新たなる偽りの普遍的公理への移行を”進歩”だと錯覚させられ、偽りの公理を説く者達は、その罪を自覚することはない。

 
そのように合理的に説明される公理が、人間を、現にここにある生から遠ざけていく。個々の生を、出発から完成へと向かう直線的時間の中の一過程に貶めてし
まう。それはすなわち、オートメーション工場のなかの一部品を扱う担当者に、人間一人ひとりを区分けする発想と同じである。

 こうしたシステムは、特定の権力者が自分に都合よく作り上げているのではない。人生に出発があってゴールがあり、そのプロセスを進む上で合理的な方策をとった方が得で賢明であると錯覚している我々一人ひとりの意識の総体が、そのシステムを作り上げている。
 私達は、この偏った思考に縛られることで、現にここにある自分の生を犠牲にしているということに知らずにいる。どんなに努力しても、常に欠落感から逃れられないのは、その為だということに気づけずにいる。
 私達は、理性的で計算高くあることが”生”の原動力であるかのように教えられ、錯覚している。しかしながら、実は、それらは、生の原動力であるどころか、常にブレーキになっている。それを体験的に知っている筈なのに、それを認めることができないでいる。
 
生の原動力は、自分では認めたくなくても、多くは社会的にネガティブだとされる感情であると、100年前にニーチェは看破している。「人にバカにされたく
ない」、「自分をバカにした奴らを、見返したい」、「あの惨めな思いを二度と味わいたくない」、「私を捨てた男を、後悔させてやりたい」等々。こうした恨
みに似た感情こそが、実は、人間をもっとも発奮させる。一代で大企業を作り上げた創業社長は、一度倒産しているなど、人生の苦渋をなめきっている人
が多い。

 このように生の強力な原動力となるネガティブな感情は、同時に、人間の苦悩の原因にもなる。人も羨むほど成功したにもかかわらず、虚栄を張ってしまうのも、人から見くびられたくないという過剰な思いが、自分を支配しているからなのだ。
 
人間の生は、かようにも複雑で繊細なもの。ダイナミックで、濃密で、エネルギーに満ちた人生は、自分のことを機械部品のようだと自覚する人達からすれば、
充実したもののように見えるが、苦悩も大きい。出発点とゴールを設定し、理性的に、計画的に生きる人生は、波瀾万丈の人からすれば、波風のない穏やかで健
やかな人生に見えるが、自分にとって意味があるか無いかを冷静に判断する思考特性が、自分の人生自体の意味や価値じたいを疑う心理へとつながったりする。

 「いったいどうすればいいいか?」と、これまた安易に単純明快な答えを求めてしまう心理。私達が、まず抜け出さなければならないのは、この部分からだろう。
 するとすぐに「答えがわからなければ、動けないよ」という声が聞こえてくる。意味や理由や方法がわからないと前に進めない、と私達は、自分でかってにそう思い込んでしまっている。
 それらは全て、社会制度や教育などを通じて積み重ねられてきた錯覚なのだ。
 
現にここで生きている人間一人ひとりは、それぞれ固有でいながら、完璧に機能する身体を持っている。私達の身体は、私達自身の意識とは別に、完璧に動いている。その”完璧さ”とは、100mを10秒で走るとか、年間に200本のヒットを打つといった、ゴールや結果など今日の人間社会にとって意味のある
価値に結びつける機能のことを指しているのではない。

 
目的に応じて機能する機械部品と違って、私達の身体は、目的とは関係なく自由に動くことができる。それでいて、ひとりでに制御がきく。自由に動くという一
種の混沌状態が、そのまま暴走してしまうのではなく、自律的に動的秩序を形成することができる。すなわち、心臓の鼓動ひとつとっても美しいリズムがあ
る。身体の完璧さとは、自由に動きながら、リズムを持った状態へと自律的に整えていく力にある。

 
我々を固定した枠組みのなかに押し込めてしまう静的な公理に基づいた秩序(頭でっかち)ではなく、リズムに基づいた秩序。つまり動きのハーモニー。動き
のハーモニーを生み出す力を身体は潜在的に備えている。その力は、”関係性に応じた自律的調整力”とも言える。関係性が、流動的に変化していくものであったとして
も、身体には、それに充分に応える力がある。

 動きが激しくなればなるほど混沌の様相を呈してくるが、それにもかかわらず、そこにハーモニーが生まれる時、私達は、生の力の真髄を見いだし、美しいと感じる。
 パパタタラフマラの舞台の美しさは、そうした激しさのなかに絶えず存在するハーモニーだ。
 
身体を疎かにして、理性、合理性、意味などに囚われた意識が一番苦手にしていることが、流動的に変化していく関係性に速やかに応じながら、その都度、自律的秩序を形成していくこと。現にここにある生を、頭で解釈し、意味を見つけ、それから対応しようとしても、永久に、現にここにある生の抜け殻のような”
現象”の後追いでしかなくなる。

 この思考特性が現代社会に跋扈している。評論家と言われる人達が振りまいている「曇りガラス」。彼らの言説によって、我々は、世界や、生や、作品と向き合ううえでの視界を損ねられている。
 
私達は、彼らが押し付けてくる「曇りガラス」を粉砕して、世界や生や作品を自分自身の自律した視点で捉えなおさなければ自分の生のリアリティを取り戻
すことができない。自分の生のリアリティは、身体が備えている世界との呼応力に基づいている。自由でいながらリズムを持ち、他者とハーモニーを奏でる時、私達は、生きている歓びを体感する。

 
現代の様々な閉塞感や歪みを抜け出す回路があるとしたら、そういうものだろうと私は思う。パパ・タラフマラの舞台も、そういう回路を目指しているように感じる。これは、演出家の小池博史さんの身体感覚に基づくビジョンだろうし、そのビジョンに沿って完璧に身体の力を引き出すことができる一人ひとりのパ
フォーマーの力があってこそ実現可能な世界だ。

 
身体の力は、社会を覆う既存の価値から離れて自由なところにある。身体は、社会が意味付ける理由以前に、それ自身の中に、それをそのように存在させる自律的な働きを持つ。その天性の力を、そのまま引き出す事は簡単なことではない。なぜなら、この社会において、私達の身体は、意味とか目的などを求める計算高い理性に抑圧されているからだ。

 小池さんとパフォーマー達の闘いは、その抑圧との闘いから始まる。自由で自律的な身体を、自らの頑な頭による支配から、いかにして解放させるかから始まる。
 
その闘いを超克した舞台だからこそ、それを見る私達も、意味や目的から自由なところに連れて行かれる。にもかかわらず、自らの身体感覚があまりにも鈍麻しているため、その真意が読めず、「意味や目的がわからないから価値が無い」かのように言う評論家がいたとしても、その人は、現代の社会制度の管理人、同時にその収監者
であるにすぎず、そうした言説に耳を傾けることは、自らを制度の檻の中に不自由に閉じ込めることになる。

 
パパタタラフマラの舞台体験。それは、社会的通念の狭い枠組みのなかで”無意味”と思われるようなことに”全身全霊”を打ち込むこんで、人間生命を燃焼させること。微妙なニュアンスも嗅ぎ取る五官を動員すること。

 
パパタラの舞台は、舞台の隅々まで隙がない。人間が意識できる視界に入りきらないところでも、いのちが息づいている。物語は舞台の中央で誰にでもわかるところや、多くの人に注目されるところで進行しているのではない。中央も周辺もない、全ての部位が、呼応し合っている。そのリズムとハーモニーこそが生の物
語であり、生の体験である。
 パフォーマーが発する身体的発生音も、「意味」ではなく、生の律動の一つである。あの間合いの絶妙さが、パパタラフマラの舞台を見る時
の歓びでもある。

 舞台は、その時、その場にいたものにしかわからない感覚がある。より多くの人が、同じ歓びを味わえた方が普遍的な価値があると思われ、その結果として、コピー文化が発展してしまった。
 
しかし、その時、その場にいなければわからない感覚こそが、かけがえのないこと。数が多いか少ないかという分別は、前の時代に作られたバイアスであ
る。数や長さよりも、一瞬の生の濃度。その濃度を味わうことで初めて、数や長さや効率性などという工業製品的な価値判断の人生から、人は、少しずつ
解放されていくのだろうと思う。