アートの行き先について思うこと

昨日、吉祥寺の[ON GOING]というミニギャラリーで、若いアーティストの海老原優さんと、トークをした。作品や、彼女の世界との付き合い方に触発されて自分の中から新たな言葉が生じるのが、気持ちよかった。

私はこれまで美術館などで開催される「現代アート」に心を動かされることは、ほとんどなかった。既に自分が認識済みのことを敢えて抽象的に示しているものや、自己破壊的な態度を作品に反映させたものは、今ここから次の位相へと自分を導いていく原動力になりはしない。また、好きか嫌いか、というレジャーの延長線において楽しむのなら、自分で縄文土器を作って眺めていた方が、まだいいという感じがあった。

でも、その理由は、昨日の海老原さんとの話で、なんとなくわかった。

海老原さんの表現を私はとても面白いと感じたのだが、美術界では、「コンセプトがない」などと否定する圧力があるのだそうだ。なるほど、美術館で行われるアートというのは、学芸員(最近は横文字でキュレーターというのか?どうでもいいけど)の人が、“コンセプト”があると判断するものを選んでいるということなのか。もしそうなら、つまらないものになって当然のことだ。

私達は、日々生きていくうえで、様々な局面と境界面を接している。私は、海老原さんの作品を見て、それらの境界面を自分に都合よく線引きして選びとるのではなく、絶え間なく動揺し、不安になったり絶望したりしながら、どこかにあるかもしれない究極の一点での交わりを祈って生きていかざるを得ない人間存在の哀というものが滲み出ていると感じた。

彼女が作り出した立体像の小さな三次元世界への親近感と、その立体像の影を浮かび上がらせながら大きく引き伸ばされる二次元映像の錯誤と眩暈感覚。

その眩暈感覚を嫌って避けて三次元の親近感ある物の世界に閉じこもって生きることを指向する人もいるが、現代人は、社会の仕組みのなかに根をおろしている二次元映像世界の影響から完全に逃れることはできない。敢えて意識的にそうしたとしても、意識と現実のあいだに断絶が生まれるだろう。

二次元と三次元という位相の異なる世界の“間”にあるのが現代の生だ。だから、そのことを誠実に認めたところからしか、次の一手は生まれない。

そういう意味で、海老原さんの作品は、コンパクトな構成のなかに、私達が置かれている多元的界面状態がうまく表されていると私は感じた。しかし、ただそれだけで終わってしまうならば、現象を抽象に置き換えただけのことになる。

あまり書いてしまうと種明かしのようで下らない解説になってしまうのだが、彼女の作品のなかで、二次元世界で横向きになった人間映像の溜息のような“つぶやき”と、三次元世界の立体の人間像との“間”に、人間の身体性というものを捉えるうえで、とても重要な鍵が秘められていると私は感じた。

海老原さんが作った三次元世界の立体像の立ち姿が私は大好きである。あれは、武術や、能などの、“吊腰”の立ち姿だ。肩の力を抜いて自然体ではあるけれど緩んでいるのではなく、“静”から“動”に瞬時に動き出せる姿勢であり、かつ、四方のどの方向に対しても、応じることが可能な構えなのだ。

海老原さんは、吊腰のことはまったく意識していなかった。自分の身体感覚で、あの形を導きだした。彼女は、自分の身体で三次元空間に生きて、膨張した二次元空間とも身体の一部である脳機能で向き合いながら、世界から降り注いでくる刺激に吊腰の姿勢で対応する人間の(現在における理想となるかもしれない)姿を、あそこに置いている。

だから私にとって彼女の作品というのは、簡単には言葉にならないかもしれないけれど、もしコンセプトというものが必要ならば、それが明確に伝わる作品である。

こうした作品に対して「コンセプトがない」といって切り捨てる輩にとってコンセプトとはどういうことかというと、多次元的界面状態の世界のなかから、適当に一部だけを選び出して、それを抽象化したものにすぎないということではないか。

“反アート”なども、当然のごとく多次元的界面状態の世界のごく卑小な一部にすぎないものであり、そういうものは、美術館に一つ便器を置いておしまいにするべきもので、それを最初に行った偉大な先人に恥もなく追随するだけのことを、アートとか、コンセプトと称する凡人が山といて、芸術を混乱させている。

しかも、この現象がより複雑になるのは、その種のどうでもいいことを本で御勉強して、情報を頭に詰め込んでテストでいい点をとれる輩が、権威的なものに非常に弱い美術官僚世界で採用され、この業界の水先案内のようになってしまっていることなのだ。

まあそんなことは、この際、どうでもいい。私が面白いと思うのは、「ON GOING」のような、「権威なんて糞くらえだ」という有志が協力し合って、自主運営のギャラリーを立ち上げる運動が、少しずつ広がっていることだ。

美術館などのように、「来場者数」とか、「結果責任」とかに縛られている世界は、「海外で有名な・・・」とか、「社会的に注目を浴びている・・・」といった、長いものに巻かれろ式の運営になるのも仕方ないし、その方面の立ち回りがうまい人達が、重宝され、力を持つのも当然だ。

そういう呪縛から解放された場をつくっていくことが、これからの表現世界において、とても重要なことになるだろう。写真などに於いても、雑誌社に売りこむという発想ではなく、そういうことにいちいち揺るがされない場を確保していくことの方が、表現を深めていく上で大事なのではないかと思う。

そういうことを私が言うと、「活動の場を増やしたい」とか、「不特定多数の人に見てもらうことこそが私の望むこと」とか、ギャラリーで作品を発表するよりも、「雑誌に掲載され、全国の人々に届けられたほうがずっとうれしい」と言ってくる人もいる。その気持ちもわからないではないし、率直な気持ちなんだろうと思う。

でも、その「不特定多数の人」という抽象性にこだわってしまう自分って、いったいどういうことなんだろうと考えることも大事ではないか。

そういう感覚も、もしかしたら大衆メディアに知らず知らず刷りこまれた価値観かもしれない。

不特定多数って、いったい何者なんだろう。本当に実態のあるつながりを保証するものなのか?

たしかに大衆メディアは効率的に出会いを御膳立てする可能性を持っている。しかし、今日のように急速に狭まった社会では、出会うべくして出会う出会いは、一挙に起らなくても、継続する時間軸のなかで、自ずから起っているように思う。そうした落ち着いた心理モードになっている時、なぜか出会いは向こうからやってくるのだけど、大衆メディアに訴えるといった類の性急なスタンスが自分を苛々と支配するようになると、歯車が狂いだすような気がする。

 出会いや、つながりというものに対する性急な態度というのは、自分のその思いが受け入れられなかった時に、怨みの気持ちを生む。

 その人は、その人個人の動機として、つながりを求めている。だから、自分では、純粋だと思っている。その純粋を受け入れようとしない相手は、酷い人だということになって、逆恨みをする。

 だから私は、「写真の売り込みしか考えていない」というオーラを発している人の売り込みは、できるだけ受けないようにしてきた。

  「作品を売り込んで、発表して、人に知られるようになりたい」という、焦燥感とか、不満とか、逆恨みの構造が、大衆メディアの作り上げてきた、「数」とか、「有名」といった価値観のなかに潜んでいないだろうか。 人と関係を持つにあたって、こうしたから自分を解放しないかぎり、良い関係も持てないだろうし、また長期的に、こうした念を抱えているかぎり、よい作品も作れないだろうと感じる。

でもまあ、社会の表面には、まだそうした大衆メディア的価値観の世界がはびこっているが、近い将来、破綻することは間違いない。異なる動きというものは、それが終わった時に始まるのではなく、同時進行的に、地下で進んでいるものだ。それを見ている人と、見ていない人の違いがあるにすぎない。

  誰が見てもわかりやすい価値観である「数」とか「有名」のものは、何も考えずに多くの人が集中する。それが、経済の投資活動にも端的に表れている。昔は分散していたものが、どんどんと狭まってくる。IT、サブプライムローンバイオエタノールと連動した穀物相場、石油、ドバイ・・・、2、3年前まではテレビ局が華々しく報道していたドバイも、あっという間に行き詰った。その期間はどんどん短くなる。次は、全てが中国に向かっている。鉄鋼に続き、自動車、そしてハリウッドを凌ぐ勢いの映画産業で、世界一になる中国。20世紀を象徴する“大きなもの”が、バブルの予感とともに中国に集中していく光景は、なんとも不気味であるけれど、それは、20世紀的価値観が引っくり返るパラダイムシフトを引き起こす、必然の、決定的な動きなのかもしれない。