「記憶の際」  11/29(日) 吉祥寺でトークを行います。   

11/29(日) 18時〜 吉祥寺の 「on going」 で、海老原優さんと私で、トークを行います。予約制:定員30名 予約制→ http://www.ongoing.jp/galle...


 『風の旅人』の次号は、彼岸と此岸2 〜この世の際〜というテーマで編集を行っています。
このなかで、私が特に意識しているのは、経験と通して獲得してきた”記憶”と、生来の”記憶”の関係についてです。
 ”世の際”というのは、もはや地理的なレベルだけで論じられるものではないでしょう。人間が認識できる範囲で言語化できる記憶と、認識の曖昧な領域で言うに言われぬ懐かしさを感じながら言語化しにくい記憶との接点もまた、私達一人一人にとって、”世の際”ということになるのではないかと思います。
 自分が獲得してきた記憶は、人それぞれであり、そこの部分でのつながりを求めすぎると、それぞれの言い分によって、齟齬が生じる可能性があります。
 しかし、人間は、自らが明確に意識できていない記憶以前の記憶というものも、存在するかもしれず、それが全ての人間の共有地となる可能性だってあるような気がします。
 誰しも、自分の経験をもとに物事を考えてしまいます。それは、人間である以上、仕方が無いことです。こうして文章を書いていることじだい、経験に即した認識から自由になることは困難であり、個人的な認識の枠組のなかに、物事を固定しているとわかっています。
 何事も、自分自身の経験的記憶で割り切れるものではないことを自覚しながら、綿々と言葉を継ぎ足し、その先にあるものを迎え入れようとする。
 風の旅人が、写真と言葉の呼応力を生命線にしているのは、そのためでもあります。

 海老原優さんは、まだ20代のアーティストですが、この人の表現を見た時に、記憶以前の記憶を引き寄せようとするかのような、引き寄せては離れていくようなリズムを感じました。
 じっと見ると、離れていき、目を逸らすと、見えたように覚えるもの。

 色彩の識別はできるけれど感度の低い目の真ん中ではなく、色彩は識別できないけれど感度の高い目の縁で気配を感じる微妙な味わい。
 夢がモノクロであることが多いのは、目の真ん中で捉えている意識的世界ではなく、意識はしていないものの高い感度でとらえている目の縁の記憶が、脳内にインプットされているからではないかと、専門家が聞けば怒るかもしれない勝手なことを私は考えていますが、私が好きなモノクロ写真が、意識化の記憶に強く働きかけてくる理由も、きっとそのあたりにあると、個人的な体験を通してではありますが、思います。
 海老原さんの作品の特徴は、モノクロかカラーかという分別はどうでもよく、”淡さ”にあると感じられます。その淡さは、意識に強く働きかける目の真ん中と、無意識ではあるものの感度の高い目の縁のあいだで揺らいでいる感覚が、生みだしているのではないでしょうか。
 だからかどうかわりませんが、ムードに流れるのではなく、とても理知的に、目にみえにくい何ものかを構造化しようとしているように私には感じられるのです。
 私達の社会は、誰にとっても明確に意識できることが優先されて整えられます。マニフェストとか、事業仕分けの公開討議とか、この国の政治は、ますますそうした動きを強めています。その方が多くの人々の納得が得られやすい。そのようにして、この社会には、人々の意識が反映されたものとして、様々な文脈ができあがっています。その一つ一つを、自分なりの文脈に解釈し直して生きていこうとすると、至るところで立ち止まらなければならないので、そうならないように、既成事実として受け止めて生きていくのが、多くの人にとって普通のことでしょう。
 また、自覚的に一つ一つのことに頑固に立ち止まることで感じられる摩擦や軋轢を、表現の力にする人もいるでしょう。
 しかし、海老原さんは、この社会の文脈のなかを、もっと自在に出入るする回路を手繰り寄せようとしているように感じられます。理想と現実、自己と他者、自己と社会(世界)を対立的に配置するのではなく、といって、自己の世界に閉じこもって内向きに生きるのではなく、自己と他者、内と外のズレやシンクロの絶え間ない繰り返しを、現実的な生のリズムと捉えているのではないでしょうか。
 円周率のように無限と続く割り切れなさ。円は、宇宙が作り出したのではなく、人間がその概念を作り出したのだと私は思っていますが、世界と向き合って、意識して分析する癖のある人間は、不思議なことに、永遠に続く割り切れなさに、円という調和形を見出しました。
 終わりのない運動。それをネガティブにとらえるか、美ととらえるか。
 区分できない領域。それを消極的に受け止めるか、積極的に生かすか。
 両者を分かつものも、この社会の一つの文脈にすぎません。その一つの文脈に絡めとられることは、人間である以上しかたがないですが、ずっとそのままでいられないのも、人間なのだと思います。

 まあ、実際に、私は、まだ何もよくわかっていない。まったくの見当違いだと笑われるかもしれない。しかし、「わかっていない」と言う人がいれば、その人もまた、一つの文脈に絡み取られているだけのこと。
 シンクロとズレは、私と海老原さんの間でもあるでしょうし、だからといって、それですべてが決定するわけでもないでしょう。