波のように考え続けること

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 ”森羅万象は、内も外もない生命流のうねりであり、多種多様な波が絶え間なく揺らぎながら、無限に連続している。生命流のうねりのなかで、それぞれの波が複雑精妙に関係し合い、その時ならではの相が現れ、たちまち消えて、また現れる。この世で見られる一切の現象は、生命流の変容していく相であり、一つの断面を固定して決定付けることは、人間の都合にすぎない。”

 この波の写真は、森永純さんが30年の長きにわたり撮り続けているものだ。

 30年も撮り続けていながら、森永さんは、まだ完成していないので写真集にするつもりはないと言う。

 風の旅人の第35号 http://www.kazetabi.com/bn/35.html で紹介したいとお伝えした時も、森永さんは、まだ完成させていないからと逡巡した。しかし、私から見れば、十分だと判断したので掲載させていただいた。

 森永さんのイメージの中では、あと4つほど波の相が必要なのだそうだ。それが撮れない間、森永さんの波の仕事は終わらない。

 波というのは、それなりに絵になるので、波の写真を撮って写真集にしている人はたくさんいる。あまり時間をかけることなく、同じ場所に立って、ザブンザブンと押し寄せてくる波を待って撮っている写真を作品だと言って発表している人もいる。そういう写真集は、すぐに飽きてしまう。人間が波を自分の都合の良いように切り取ったところで、それは波ではなく、波のごときデザインでしかない。

 森永さんは、ドブ川に取り憑かれていたように、波の複雑精妙さに取り憑かれて、30年以上も撮り続けている。波を見ていて、すぐに飽きてしまうような見方、向き合い方をしている人は、すぐに発表できてしまう。しかし、森永さんは、何度見ても、波の中に新しい魅力を発見して飽きることがない。だから、すぐにまとめて発表なんかできない。そういう人が撮った波の写真もまた、飽きることのない魅力がある。

 森永さんの波の写真は、人々が一般的に共有している波のイメージをなぞって安易に共感をさそうものではない。

 その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相ではあるが、撮影によって波の動きを切断したという感じはせず、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられていると感じる。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、波は次なる動きを生みだしている。

 波をじっと見ていると、生命の摂理というか律動が、そこに凝縮しているように思われる。だから、波を表現する際、乱暴な扱いはできない。そのことをわかっていない撮影者は、単なる風景の一コマとして波を処理することに躊躇がないのだろう。

 余談であるが、小学校の頃、住んでいた家の傍が海だった。学校から帰ってすぐに私は、ワカメ取りに海に入った。膝くらいまで海の中に浸かり、漂ってくるワカメを、竹の先に針金を鉤形に細工した道具を使って、引っ掛けるのだ。そうやって海の中に立っていると、打ち寄せる波のリズムが身体に染み渡り、陶然とした感覚になり、時間が経つのを忘れる。まるで瞑想状態のように。でも、目の前にワカメが流れてくると、身体はさっと反応する。

 今も、物事を考えて決断する時の感覚は、それに近い。決断する時、頭の中は情報がいっぱいなのではなく、空っぽに近い。空っぽなのに、決断したり、何かをアウトプットしたりする。空っぽなのではなく、記憶の中に沈んでいるのだろう。私にとって、物事を考えたり、決断したり、編集することは、意識の表層を使った作業ではなく、記憶の深いところに潜む何かを呼び出すことなのだろうと思う。

 波のリズムというのは、間違いなく記憶の深いところに働きかける力がある。未来の一手は、他人からの借り物の情報で占められている意識の表層ではなく、自分でも意識できないほど深く自分のものになっているところから掘り出してこそ、自分に即したものになっていくのだろう。意識的にそれを行うことはできないが、波の力は、それを助けてくれる。本物の波だけとは限らず、森永純さんの波の写真は、私に似たような瞑想体験を与えてくれる。