道具がつくり上げる人間の意識や価値観?。〜20世紀編

 テクノロジーの進化が、人間のライフスタイルを変化させるだけでなく、その技術の用い方(道具)が、人間の意識や感性、思考特性に影響を与えることは今さら言うまでもない。
 20世紀には、様々な技術が生まれた。人間世界に影響力の強かった技術はたくさんあり、人によって、様々な意見があると思う。
 宇宙開発技術は、地球の外側から見る視点を与えたし、医療技術は、人間の生命観を変えてしまった。原子力技術に関しては、まだ明確な答えが出ていないが、人間が、自分の手で作り出した技術を管理できるか否かといった問題を、これまでの公害問題よりも遥かに深刻な局面(自らの手で自らを滅ぼす可能性)で考えざるを得なくなるだろう。
 医療や原子力など生死に直接的に関わる技術開発とは別に、日常的な価値判断や思考へ影響を与えた道具という側面で考えてみると、私は、1890年のザ・コダックの発明と、1913年、フォードが始めたベルトコンベア式組立ラインを挙げたい。
 それらは技術開発というより、技術の用い方、すなわち道具の発明だ。アップルのiphonやipadと同じく、テクノロジーの用い方を刷新することで、新しい生活様式や、価値観を作り出した。
 ザ・コダックという道具の発明は、それまで大型のカメラを使い、一枚一枚、大きなフィルムを自ら製造して撮影していた手法から、誰でも簡単に写真を撮れるように機能的な小型フィルムを使って、連続的な撮影を可能にした。
 もちろん、1826年のニセフォール・ニエプスによる写真そのものの発明が、それに先行している。写真の発明が人間の意識に与えた影響は大きい。しかし、その技術の用い方によって社会が大きく変化したのは、ザ・コダックからではないかと思う。時を同じくして写真印刷も行われるようになり、写真が一挙に大衆化していき、映像の力を活用したメスメディア社会への流れが、ここに始まったのだと思う。
 人間の意識変化というポイントで考えると、ザ・コダックの発明によって、世界(対象)を自分に都合よく切り取って提示することが非常に簡便にできるようになったことが重要だ。コマーシャルの発達もその延長線上にある。万物の尺度は、自分中心になるのだ。世界や自然を前に、人それぞれの感じ方、考え方で自由に解釈すればいいという風になる。当然ながら、対象への敬意や畏怖という感覚は薄れていくし、聖なる祭りはエンターテイメントになる。その感覚は、経済発展という名の大量消費や、自然破壊などと容易く結びつく。
 そして、その流れをさらに促進させるのが、ベルトコンベア式組立ライン。全体を細かく分解して、一人ひとりは、部分を担当する。全体のことなんかよくわからなくて構わない、自分の持ち場だけ真面目にやればいいという感覚。自分と直接的に関係ないことには無関心。役所や大企業などにおける縦割り構造の問題がよく指摘されるが、そうした問題を指摘する学者などのインテリ層じたいが、自分の専門とそれ以外に分断された蛸壺状態の中にいる。専門領域のことしかわからない先生から学ぶ学生も、ますます分断構造に囚われていく。
 全体が見えないまま歯車の一つになってしまう人生は、とても不安で虚しい。その不安や虚しさを解消する為に、自分の役割を真面目に果たすこと以外の時間は、自分の趣味関心のことに没頭するか、できるだけ何も考えないように憂さ晴らしに費やすようになり、それが娯楽と消費に結びつく。
 ザ・コダックの手法は、大衆マスメディアを発達させ、大衆マスメディアは大量消費型の経済と相性がよい。そして、フォードが発明したベルトコンベア式大量生産が、太陽消費型経済を支える。
 20世紀を生きてきた私たちの意識は、この二つの技術応用の影響を受けている。私達は、自分で物事を考えたり感じたりしているつもりだが、実は、知らず知らず、考え方や感じ方の癖がついており、その癖は、ザ・コダックが確立した自分を中心とした簡便なる情報の取捨選択と、フォードが確立した分業手法から始まる多角化と、部分最適の特性を受け継いでいる。この二つの思考発想の癖は、世界が拡大して次から次へと新しい物事が生まれる状況では意味がある思考特性だったかもしれない。
  この二つの思考発想や、それに基づく価値観は、地球環境に深刻な問題を引き起こしたが、人間の暮らしに恩恵を与えた。だから、人間は、それを喜んで用いた。そして、20世紀の人間世界を覆い尽くすようになった。
 しかしながら、分断と自分本位の作業によって、世界中のあちらこちらに同じようなものが膨大に発生し、その多くは自分の生存に必ずしも必要とは言えないものばかりで、全体として非効率な状況になってしまった。そのような状況でも、そのシステムを延命させることで利益を得たり保身をはかれる者は、その重複や、不必要さをカムフラージュする価値観を次々と作り出す。トレンドとか、多様化とか、新しい物は良い物といった様々な詭弁で。(ようするに、一台あればいいテレビや、最低数あれば足りる衣服を必要以上に買う気にさせたり、豊かで活気ある社会の実現等と言いながら、次々と物を買い替えさせようとする。)
 もはや、人間の暮らしの向上のために作られたシステムが、システムじたいの延命のために、人間の営みに負担を押し付けるにようになっているのだ。
 本来の自然は、部分と部分が絶妙な協調関係を保ちながら全体としてのシステムを、環境の変化に対して、素早く上手に対応させながら、自らを維持、成長させる。
 一つの方法は、うまくいく時もあれば、その方法が行き詰まる時もある。その方法が行き詰まる時は、新たな方法が生まれる時であり、それに伴って、新たな価値観や考え方が創造される時だ。
 20世紀の物事の感じ方や考え方が、これまでの人類の歴史の頂点であるかのように錯覚している人が多いが、その考えもまた、ベルトコンベア式の生産ラインのように、先に行くほど物事が完成していくという思考特性によるものだ。
 20世紀が上とか下とかではなく、たまたま、ザ・コダックやベルトコンベア式の思考特性や価値観が集まることで20世紀社会はこうなったと軽く認識していた方が、今起こりつつある変化に、より柔軟に対応できるのではないか。
 20世紀の思考や発想に頑なに固執する必要もないし、ムキになって否定する必要もない。時代は、次のステージに移行しつつあり、新たな技術の用い方が現れている。そして、その技術の用い方から、人間の意識や発想は、大きく変化していくことになる。
 重要なのは、Ipadの技術ではなく、技術の用い方なのだ。アップルのような会社は、技術を他所から持ってきて、生産も他所でやっている。しかし、そうした方法で出来上がる道具の全体像はしっかりと認識している。全体像というのは、その機械の使い方によって引き起こされる人間生活の変化や、それに伴う意識の変化だ。
 100年前のコダックやフォード式ベルトコンベア等の道具が、20世紀の人間意識と現実を整えていったように、21世紀の道具の用い方が、21世紀の人間意識と現実を作り、整えていくのだろう。