新しい道徳教育への懸念

 文部科学省が、小中学校の道徳に関する学習指導要領改定案を公表した。

 道徳の問題は、いろいろ議論があるけれど、私が気になっているのは次の三つ。
 一つは、新しく導入される評価制度のこと。
 教師は、児童生徒の成長ぶりを評価しなければならないだけでなく、それを文章で記述する評価方法が検討されているらしい。
 先生の下した評価に対して、納得できないという両親もいるだろうし、どんな基準で評価すればいいかわからない先生達の不安も大きい。
 そうすると、道徳の評価に対して、一定の基準ができてしまう可能性がある。
 文部科学省の強制や強引な指導というより、現場が、どこにでも通用する一定の基準を望むような気がして、それが結果的に、政府の指導につながっていく可能性もあると思うのだ。
 道徳のようなデリケートな分野は、最初から政府が強引に価値観を押し付けるということはさすがにできないだろうが、現場からの声に応える形で、少しずつそうなっていくことはあり得る。その時、政治家というものが極悪非道人だから警戒しなければならないなどと私は言うつもりはない。
 政治家の中にも官僚の中にも、道徳的に素晴らしい人はたくさんいると思う。
 問題は、悪人が悪いことばかりするとは限らず、善人が良いことばかりをするわけではないということ。悪人も、組織の立場上、悪く振る舞う人もいて、1人になれば、けっこういい人だったりすることもあるし、善人も、集団化する時、おそろしい凶器になることを、先の戦争をはじめ、歴史がそのことを教えてくれる。
 また、問題解決の方法も、方法自体は間違っていなくても、それへの取り組みが性急すぎると、問題をさらに歪めるケースもある。
 正しさとか、善いか悪いかといったことは、常に両義的で、道徳というものを学ぶ意味があるとすれば、物事には常に両義性があるということこそを学ぶ必要があると私は思うのだ。
 一番厄介なことは、正しそうに見えることでも、結果を求めすぎて性急になったり、誰もが盲目的にその正しさを信じることで、その正しさの中に潜む小さな矛盾が、気付かないうちにバタフライ効果のように強大化してしまうこと。その前段階で敏感な人がその予兆を感じても、集団が熱狂的に信じる正しさを前にして、誰も異論を唱えることなどできなくなること。
 道徳教育を評価することの矛盾は、そうした物事の両義性をどう捉えていくかということと、短期間のうちに成長ぶりを評価しなければならないとしたら、遠回りが許されなくなってしまうことだ。
 具体的なケースでは、その子供が天の邪鬼だったらどうなのか。物事を深く考えているゆえに、素直になれないということは多い。敢えて反発する。敢えて、命令に従わない。そういう子供を矯正することが道徳教育になってしまってはいけないだろう。深く考えず、点数稼ぎの為に良い子を演じる子供が高い評価を受けるのもおかしい。
 子供の頃、人の何倍も深く考えて、それゆえに天の邪鬼になって周りと軋轢を生んでいた子供は、その過程で、物事の両義性の経験を積む事ができる。その経験は、きっと大人になってから強みになるだろうし、その逆の優等生は、思い通りにいかない社会に出て初めて物事の両義性の間で苦しむことになり、その抵抗力を育んでいないことが致命的なことになってしまうかもしれない。
 遠回りというのは、大きな円を描いてプロセスを踏んでいるわけで、その過程にいる時は、求めるところからどんどん離れていくことが宿命づけられている。大きな円を一周して初めて、遠回りの結果、広大な世界認識を得たことに気付けるのだ。
 遠回りをした経験のない先生が、親からのプレッシャーの中で、遠回りの大切さを子供や親に説けるか、そして遠回りをしようとする子供の成長が評価できるかどうか。
 道徳の評価というのは、かなり難しいところがある。

 今回の学習指導要領改定案で二つ目に気になる事。
 これまで「郷土の文化や生活に親しみ、愛着をもつ」としていたところを、「わが国の文化や生活に親しみ、愛着をもつ」と変更されること。「愛国心」という言葉が前面に出ずに穏当な表現の着地にとどまったことを評価する有識者もいるようだが、それはどうかなあと私は思う。
 「愛国心」の問題は、「愛」という言葉が、現実的なリアリティからかけはなれて抽象化していくことにあると私は思っている。愛が抽象化すると、シンボルにいきつく。
 自分が使い込んだ鞄への愛着と、コレクションの一つであるブランド物の鞄への執心は違う性質のものだろう。前者が愛しているのは、鞄に滲み出ている「鞄と共有した時間」だ。その愛は、他の人にはわからない当事者だけのものだけれど、当事者でない人でも、その人と鞄の関係が、いい関係だなあということはわかる。
 それに対して後者の執心は、自分のコンプレックスを隠すためにブランド品の威光を借りたり、他人に見せつけることで得られる虚栄心の為だったりする。だから、自分が持っているブランド品よりも威光の強い物が現れると、それに簡単に乗り換える。
 そのブランドが力を持っている間だけ贔屓にしているのであり、その力がカラクリだったりすると、平気な顔をして、あの時は騙されていたと言ったりするのだ。
 前者の愛は、「共有した時間」を基礎にしているのに対し、後者は、記号化されたものの世間的な評価が基礎になっている。
 そこで、今回の道徳に関する学習指導要領の改定案で気になるのが、愛着を持つべきだと指導される「わが国の文化や生活」って何なのよということだ。
 「わが国」は、北海道から沖縄まで縦に長く、小さな島も無数にある。しかも、近年のわが国の生活は、24時間オープンのコンビニエンスストアで物を買い、家電量販店のギラギラする照明の中で細心の大型テレビを買い、休日には家族でディズニーランドに行ったりファミリーレストランで食事をする人が、異常に多い。そして、家の中にあった子供が実際に見たり触れたりするもので、いったい何が、「わが国の文化や生活」と呼べるものなのだろう。
 そうなってしまうと、子供の日常のリアリティと遠いところにあるものが、「わが国の文化や生活」ということになる。
 その中で、何をもって、わが国を代表する文化や生活ということにするのか。その取捨選択の問題があるし、取捨選択の作業を通じて、文化や生活が短絡化され、記号化されることは間違いないだろう。
 そうなってしまうと、道徳は、そうした記号的な知識を知っているかどうか、ということにしかならない。物事を考えていくうえでの基礎とはならない。それ以前に、道徳で教えられるわが国の文化や生活と、子供達の親が実際に行なっている生活や余暇の過ごし方の違いを、どうするのか。大人の道徳教育も一緒に行なっていく必要性があるという話にならないとも限らない。「わが国の・・・」という画一化され記号化された生活や文化で、足並みを揃えていかなければならないのか。
 そして、他者と協力し合い仲良くすることが必要だと道徳で説かれるわけだが、そうした”同胞意識”が、「わが国」に広げられると、会ったこともない人々と価値観を共有するために、「わが国」を表すシンボルが必要になる。日の丸とか君が代とか。愛国精神というのは、そのように物事が記号化されていく過程を通して1人ひとりも記号化され(つまり固有の顔を持たない)、システムの中に機械的に組み込まれて、そのシステム自体が個人の意志を超えて走り出してしまい、その暴走を誰も止められるなくなる状態へと導くプロトコルのようなもので、道徳の学習指導要領などのように、いったん約束事や手順が決められてしまうと、その方向に向かって、複数の動作が、自動的に確実に実行されていく。
 「郷土の文化や生活」という言葉が、「わが国の文化や生活」というように、より抽象化されると、より単純化されやすくなるので、プログラミングも単純化しやすく、価値観の一極集中がいっそう強まることが懸念される。
 「わが国」の歌が「君が代」ならば、「郷土」の歌は「ふるさと」であり、歌っている時の実感がまるで違う。
 「わが国」が抽象的なのに対し、郷土には具体的な風景があり、時間があり、それらの風景や時間との関係性を具体的に知ることができる。
 郷土の食べ物を口にして感慨を覚え、それができあがるまでのプロセスを知りたいと思い、探求の結果、その土地の風土との関係性を知り、そういう料理方法に至った歴史を知る。そのように、想像力が具体的な事実に添って広がっていく。
 これまでの学習指導要領が、「郷土の文化や生活」を大切にすることを現場に求めているのであれば、本当は、日本全国で、それぞれ違う教科書でよかった筈だ。そして、その土地ごとの祭りや社会行事に積極的に参加したり、農業や林業や漁業に従事する人達と子供達の交流をもっともっとはかればよかった。
 地方の過疎化が深刻な問題になっているのであれば、地元の子供達が、自分が暮らしている土地の自然や歴史伝統に眼が行くような教育を行なうことが必要だった。今からでもそういう取り組みをすればいいと思うのに、なぜか道徳教育において、「郷土の文化や暮らしへの親しみや愛着」ではなく「わが国の文化や暮らしへの親しみや愛着」に転換をはかるというのは、見当違いも甚だしいと思う。

 そして三つ目の懸念が、政治家や官僚が強い口調で指導していないのにかかわらず、教育関係者や教科書を作る会社が、ある方向性を進んで読み取って、先んじて手を打った方が得策だと判断して、自ら進んで物事を前進させていく力が働くことだ。
 日本は、伝統的に、強い指導力で物事が前進していくのではなく、世間の空気を読んで、少しでも先回りをしようとして、動く人が大勢いる。
 ビジネスにおいてもその方が有利だ。道徳教科書だって検定があるわけで、検定する側の意を汲んでいた方が、採用されやすいだろうという気持ちも働くだろう。
 商売でも、お客に言われてから動くのではなく、状況を察して言われる前に動くことで、
「ういやつじゃのう」ということになって、贔屓にされる。日本人は、人の顔色をうかがうのが得意というより、顔色をうかがって行動した方が得をする社会システムが、至るところに張り巡らされている。
 それだけ日本人は洗練されているわけでもあるが、一度、方向付けられると、一斉にその方向に流れていって、しかもそれが短時間に起こることは、歴史が証明している。
 だから、政府や官僚が方針を示す時に、過激な言葉を使っていないから安心というわけではない。
 抑制のきいた言い回しで方針が示される時ほど、想像力を働かせて、その背後にあるものを見据えておく必要があると思う。

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