他者への寛容性の問題とか、簡単に答えの出ない問題。

 先日、哲学者の鷲田清一さんのインタビューを行なった。4月1日に発行する風の旅人の制作の為だが、自由、他者との関係性、そして偶然性と必然性の三つを柱に話をうかがった。
 その核にあるのが、「他者に対する寛容性」の問題だ。偶然性と必然性のことについても、自分の価値観の正しさを頑に信じすぎていると、もののはずみ、すなわち偶然性から思いがけない展開が生じていくことに対して心の備えができないし、他者に対して、自分の価値観を強要したりして、結果的に他者に対する寛容性が損なわれる。
 自由の問題においては、自分のやりたいことと、それを損なう他者(人とは限らない。組織とか規制などもそう)の存在が生じ、他者への寛容性の問題がでてくる。
 そして、「他者への寛容性」に一番関わってくるだろうと思われた「他者との関係性」における鷲田さんの話では、あまり寛容性のことに話がいかなかったところが面白い。
 「他者との関係性」の中で展開された話は、たとえば、主と客が転換してしまうという話。かつて、”まれびと”という異質な人間が村を訪れた時、村人はいかにしてその客を受け入れたか。
 その”まれびと”は、貴重な情報をもたらす人間かもしれないし、敵のスパイかもしれない。スパイのリスクがあるからという理由で、まれびとを拒んでしまうと、共同体が同質化のなかで停滞し、衰退していく。だから、リスクを負ってでも新しい者を村に入れるべきだと昔の人は考えていた。そして、もしスパイであった場合は、こちらがぞんざいな扱いをすれば、敵は、容赦なく自分達を攻撃してくる。もし、きちんともてなせば、敵だった存在が味方になるかもしれない。その可能性は半分もあるかどうかわからないが、ゼロよりはマシだ。だから、客を主人のように遇する。
 これはもう、他者に対する純粋な寛容性というよりも、計算され尽くした智慧だ。ある意味で狡猾さであり偽善だ。よく言うならば、洗練されたセンスだ。しかし、その洗練が、闘いの確率を少しでも減らすことができる。
 「他者との関係性」の問題を考える時に、時々、「他者への寛容」を説く人がいるけれど、どうやらそれは違うようだ。ここで言う他者とは、自分と異質な存在であり、異質な存在は油断ならないものであり、だからといって拒むのではなく、心の中と顔の表情は使い分けて、うまくやり過ごすことが重要だということになる。
 「他者への寛容」という言葉にもたれかかって、それが誠実の証だなどと単純に考えていると、もし異質な相手が自分の予測しなかった行動をとると、時としてパニックに陥る。そして、自分は信じていたのに裏切られたと、好意が敵意に転換する。
 英語で、ホスピタリティという言葉は、ホスピタルとかホスピスとかホテルなどのように「人をもてなす」という意味の語源でもあるけれど、同時に、ホスティリティという”敵意”を表す意味に転換する。昔から人間はそのことがよくわかっていたのだ。
 つまり「他者との関係性」の問題は、味方か敵かわからない異質な相手との上手な駆け引きが大事だということになる。
 そして、「他者への寛容性」の意味は、自由について考える時に出てくる。
 自由は、英語ではliberalだが、多くの人が自由という言葉で連想する「自由主義(個人の自由を守ること)」という意味は、四番目くらいにきて、上位に来るのは、寛容とか、豊かという意味。つまり、自由というのは、自分のこだわりとか価値観とか所有物から自由で、執着がない豊かな心ということになる。
 自分の価値観に執着がないから、自分の価値観を他者に強要したりしない。寛容というのは、そういう意味になる。
 寛容を、「他者に対して優しくすること」だと捉えて、相手のことを思うからこそという正当化で自分の価値観を誰かに強制することは、実は”寛容”とはもっとも遠い行為ということになってしまう。なぜなら、それこそが、相手のliberalを損なうことになるから。
 liberalという意味の要の部分に寛容があり、その後に自由主義という意味がある。これはいったいどういうことだろう。
 つまり、人は誰でも身勝手なところがあり、身勝手でない人間など存在しないだろうということが前提になる。そして、身勝手な人間が、もし他人に迷惑をかけて他人の人権や自由を損なうようなら問題だが、そうでないのなら、その身勝手さをそのまま認めるということが寛容ということになる。
 ここで鷲田さんは、九鬼周造の「いきの哲学」の”平行”という概念を出す。
 親しいからといって交わらない、くっつきすぎるのはダメ。縞模様のように潔く平行線を保つことがいいのだと。一番ダメなのが、旭日旗のように、真ん中の真っ赤な太陽に向かって、方々から線を集中しているような図なのだと。
 親が子供に接する場合も、子供を心配して、子供への愛情の証だとあまりにもべったりなのは、見ている方も、そんな親の子はどうなるのか心配になるし、なによりも、子供が生物の本能として、それを拒むだろう。
 「人に迷惑をかけないのなら好きにしていいよ。その代わり、自分のことはきちんと自分でするのよと」と突き放して、見ていないようで、どこかで気にかけて見ている親の視線が、子供にとって一番健やかなような気がする。

 「他者に対する配慮」というのは、あからさまに手を差し出すということではなく、見ていないようでしっかりと見ているという態度なのだろう。それが相手の尊厳を尊重するということでもあるのだろう。
 子供が親の愛情を感じるのもそういう時で、あなたの為にということが露骨になると、子供は、愛情を感じるというより、親の心の中に、何か空虚なものがあることを察するだろう。自分の人生を子供に託しているような・・・。
 子供としては、親は親で自分の人生を生き生きと生きてくれる方が有り難い。
 親と子も、恋人同士も、確かに、潔い平行線の方が、清々しくて健やかな気がする。
 鷲田さんは、他にも色々なことを語ってくれたが、さらに「いきの哲学」の中の、”意気地”を掘り下げてくれた。
 意気地は、たとえば、「武士は食わねど高楊枝」という言葉で表されるように、食うものに困って腹は減っているのに、そういう素振りさえ見せないという美意識だ。
 自らを弱者として見せた方が同情をかい、自分に都合の良い何かを引き出せるかもしれないけれど、きっぱりとそれを拒絶する潔い人生観。
 頭が硬く、融通がきかない不自由な生き方のように見えるけれど、このことはじっくりと考えてみる必要がある。
 人から見て、一見バカだと思えるようなことを、誰にも命じられずに自分の意志でやっているのだから、傍が何と言おうと、不自由ではなく、自由なのだろう。
 それ以前に、損得の分別がないし、それで死んでしまってもいいと思っているくらいなら、やっぱりそれは、自由なのだろう。
 自分のやっていることが、何の結果にもつながらない、つまり見返りがない、人からは陰口を叩かれる、それでも好きでやっているのだから、それこそ自由なんだろう。
 九鬼周造は、なぜそうした意気地を大切にしたのか。ただのロマンチストか。そうではない。九鬼の心の底にあるのは、上に述べた平行線の美学もそうだが、「他者との共存不可能性」を自覚している悲痛さなのだ。つまり”孤独”という境地に生きる覚悟だ。
 安易に、他者とわかりあえる、他者と共存できると考えられない事情がある。
 安易に考えてしまい、不用意に一線を超えてしまうと、ホスピタリティ(おもてなし)が、ホスティリティ(敵意)になってしまう。
 わかりあえなくていいじゃないか、共存できなくても平行線でいけばいいじゃないか。
 それぞれが迷惑をかけなければ、意気地を張って、身勝手で、自由に好きなように生きていいじゃないか。そのかわり、自分の尻は自分で拭けよという距離感の大切さ。自分の孤独を自分で引き受ける覚悟。寂しさとの付き合い方。
 昨今、時々世間を熱くさせる「自己責任」の議論とは違う。だって、自己責任の議論は、自己責任があるとかないとか相手を糾弾しているから。
 いろいろなことが起こりうること、何がどうなろうと動じないと覚悟して、意気地を張る。大見栄を張る。偉そうなことを言うかもしれない。しかし、他人のことを名指しで、あれこれ言わない。そういう最低限のケジメをつけることが、意気地なのだろう。
 意気地と、他者への寛容性が、時として衝突することがある。衝突することじたいは、大きな問題ではない。生きていれば、それは自然なこと。しかし、衝突によって傷つけ合いが続いて、どちらも壊れてしまうようでは問題。そうならないためにこそ、共存不可能性という自覚が大事。
 なぜなら、人は、自分と同じ価値観の人とか、人に寛容な人に対しては寛容になれる。しかし、そういう寛容は、それが裏切られた時に敵意に変わりやすい。寛容の意味が、「同じ仲間にしてあげる」という上から目線になってしまっているからだ。
 重要なことは、自分と違う価値観の人や、人に対して不寛容な人が相手であっても寛容でいられるかということであり、その時、寛容というのは、同じ仲間として認めてあげるという熱い感情ではなく、まあそういう人もいるねと、存在を認めた醒めた感覚になる。
 アメリカのように、正義の旗を立てて、「オレがその悪い癖を直してやる!」というものでは、もちろんない。

 すなわち、「他者とのつながりを大切にする」というのは、つながった糸を切らないように頑張って関係を歪めてしまったり、その糸を自分の方に引き寄せることではなく、いつ切れても構わないくらいの自由なつながりが大切ということだろう。ある時には対立し、ある時には助け合い。超えてはいけない一線がわからなくなってしまうくらい鈍くならないよう、緊張感を保ちながら。
 けれどももし、その平行線の相手が、こちらの領域に入り込んできて、怒らせるようなことをしたら、どうなのか。
 闘いを避けるために、こちらは黙って相手に言わせておく、やらせておくことが寛容なのか。
 それは違うだろう。(人によって意見は色々あるだろうが、私は、生理的に(生き物の本能として)、違うだろうなと感じる)
 テリトリー意識の強い野生は、平行線が崩れているのだから、少なくとも平行線に戻さなければならないという動きをする。それ以上は深追いはしないが。
 その時に、意気地の自由が大切になる。
 自分がどういう形で反応したとしても、相手は、自分の思うとおりにならない可能性が高い。それでも敢えて、おかしいものはおかしいと言う。
 小さな身体のものでも、相手が自分の縄張りに入ってきたら、キッと、気合いで身体をぶつけることがある。
 それを行なうことが、闘いを悪化させると考える人もいて、それで思考が膠着してしまうこともある。
 しかし、平行線に戻したところから、本当の大人の対話が始まる筈だ。
 平行線に戻すための言動のセンスや、魚のような全身に漲る気合いもまた、とても重要だろう。タイミングも重要だ。モタモタしない。条件反射のような鋭い動き。身体の小さなものでも、そういう動きで、縄張りに入りそうな相手を牽制する。
 とはいえ、こちらがいきり立って相手の懐に突っ込んでいったら、闘いはより複雑化してしまう。
 「あなたが平行線を食い込んできたから押し戻しますよ」という程度のことを、怯むことなく堂々と行なえるかどうか。もちろんそれでも相手が未成熟で、押し戻されたことに対していきり立つかもしれない。野生の場合は、あまりそういうことがないようだが、人間の場合、それは起こることもある。なぜだろう。きっと、野生の生き物のような、生と死が隣り合わせであるという緊張感がないのだろう。野生の中では、相手が小さくても、隙をつかれて噛み付かれて少しでも傷を負えば、いくらその相手を打ち負かしても、その後、生きていくうえでかなり不利になってしまうのだ。
 だから人間も、戦いに勝てそうな相手でなくても、噛み付く気迫くらいは見せるべきなのだ。それが意気地でもあるのだ。その上で、戦いがはじまってしまっても、こちらがいきり立っておらず、いつでも隙あればやめて平行線に戻したいと思っていたら、相手も、その平行線から先は入り込まない可能性は高いと思う。
 こういう書き方をすると、だから防衛力は必要で、そのために軍備増強が必要だと短絡的にとらえる人がいる。
 しかし、平行線を意地するための噛み付く気迫が、軍事力とは限らない。軍事力というのは、相手の心に、平行線を超えて入り込んでくるかもしれないという恐れを抱かせる。
 小さなものが、大きなものに気迫を見せる時は、牙をむくとはかぎらない。
 こちらに入り込んだら傷を負わせるぞと気迫で見せる時の傷は軍事力とは限らない。近年、政府間で揉めていても、ビジネスその他で関係は入り交じっている。ウクライナ問題におけるロシアなども、金融制裁で、かなり傷を負わされているのだから。
 これから益々、「有事に備える」ということが声高に言われるだろう。今起こっている人質解放の問題も、正しい答えというものを誰にも言えない哲学的な問題の前に立たされている。
 「考えても意味がない、行動しなければならない」と言う人もいる。その言葉もまた、不寛容だ。考える人も、行動する人も、何も考えない人も、いろいろいる。けれども、1人ひとり、自分の人生の課題は避けて通れないということだけは共通している。
 自分の人生の課題が、今の世界で起こっている様々なことのなかで、どういう位置関係にあるかマッピングすることは、誰にとっても大事なことだ。
 けっきょく人は誰でも自分の人生を大事に生きるしかないのであって、その自分の人生と、すべての他者(人も会社も家族も政府関係者も)のあいだで共存不可能性を前提にした、つまり必要以上に相手を期待せずに、平行線の緊張感のなかで、今、自分は何をすべきかを考えていくしかないのだろう。人からどう思われるかということを気にすることよりも、自分の中の意気地を、より気にかけるくらいの程度で。

 とはいえ、わかってもらえないということは寂しいことだ。関係性も含めて、いろいろなものを失っていくことも寂しいことだ。最後には間違いなく自分がこの世から消えてしまうことも寂しいことだ。その寂しさを自分で引き受ける心持ちが必要になる。それについて、九鬼周造は、「諦」ということを言っている。

 恬淡無碍。こだわらず、執着しない、枯れた境地の、冬の空のような、冷たく広々とした自由。最後にはそこに行き着くということか。
 鷲田さんとのロングインタビューは、9ページにも及ぶので、ここに全てを書ききれないけれど、今、社会で起こっていること、そして未来のことをあらためて見つめなおすうえで、とても有り難い時間となった。

*鷲田さんの話に触発されて色々考えているけど、すべて過程にすぎない。断定的な言い方があるのは、それが決定事項ということではなく、今の時点で、そのように踏ん切りをつけて前に進むということにすぎない。主と客が突如入れ替わるように、物事はいつでも転換の可能性があるということは、知っている。 
 

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