日本という国に対するリアリティ

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 この写真は、風の旅人の次号(www.kazetabi.jp)で紹介する広川泰士さんの写真。富山県の南砺というところ。合掌造り集落があり、衣食住に伝統的な暮らしが息づいている、とっても素晴らしい場所。

 現在、東京の人口は1321万人。そして、全国第2位の神奈川が907万、第5位の埼玉が720万で、第6位の千葉が619万。つまり、上位6つのうち4つが東京と東京に隣接した東京の通勤圏や娯楽圏で、そこに住んでいるのが、3566万人。日本の人口12700万人の三人に一人が、この狭いエリアに集中している。そして、このエリアは関東平野で、日本では数少ない、大きな山が視界に入ってこない地域。通勤電車に乗って、東京の職場を往復する毎日を過ごしていると、日本が山国であることを忘れてしまう。

 しかし、実際には、日本の国土面積の70%が山岳地帯で、その67%が森林。つまり国土の約半分近くが森ということになる。

 この地理的条件が、日本文化や日本人の心を育んできたことは間違いないが、現在の人口の極度な集中が、そうしたリアリティを喪失させ、本来の文化や心と乖離した現代日本を生み出している原因であるとは言えるだろう。

 日本人の三分の一が、日本が島国で山国であるということを、まったく意識することなく、日々、生活しているということ。生活周辺の、ほぼ全てが、一極集中した狭いエリアをスタンダードとして作られてしまっていること。そのスタンダードが、身体性を伴わない、頭の中だけのリアリティになっていること。

 利便性を追求して首都圏に人は集まってくる。そして、その利便性にどっぷり浸った生活をしているうちに、それが当たり前になる。その当たり前の感覚を持っている人が圧倒的多数で、企業などにおいても有力な顧客となるわけだから、全ての基準がそこに置かれてしまう。結果的に、日本国内の様々な活動が、その価値基軸に添ったものになる。

 もちろん、そうした人工的な環境から束の間逃れるレジャーとして登山愛好家も増えているが、週末の強行軍の登山ツアーなどに参加して、合理的に、効率よく登山を体験するという類のものになる。

 けっきょく、その場限りの処理、対応、医療でいうなら対症療法のような発想で、人生のあらゆることが決められてしまう。教育、進学、就職、結婚、遊び、その他・・・。

 物事との付き合い方が、あまりにも短絡的で、”自然”でなくなってしまうのだ。

 自然な付き合いというのは、決して、対症療法ではない。一つの結果を作り出している原因は、色々と複雑であり、時間が積み重なったものであり、どれか一つの大きなポイントだけ取り上げても、そのことによって、全体のバランスを悪化させることはよくある。

 自然を大切にするというのは、自分に都合良く自然を愛でればいいわけではなく、自然が自然であるための時間の積み重なりや、それこそ神は細部に宿るという言葉で表せるような、目立つ部分ばかりに意識を囚われてしまうのではなく、隅々まで配慮を行き届かせるような、日々の活動を心がけるということになるのだろうと思う。それは、一人ひとりが、人生の匠のように生きるということになる。

 現代でも匠は尊敬の対象であるが、別世界の人という目で見られる。(だからこそ憧れる存在でもあるのだが。)

 不自然に管理され機械化された世界の中で、歯車の一つとして役割を押し付けられ生きていると、匠のような生き方は、遠い世界のように感じられてしまう。しかし、日々の生活を通して自分の中に積み重なっていく情報の質とか種類によって、かなり状況は変わってくるものなのかもしれない。

 対症療法の情報ばかり取捨選択していくと、人生もまたその場かぎりのものになっていく可能性が高いし、時間をかけて付き合わざるを得ないようなものと長く付き合っていくと、人生もまた、歳月とともに奥行きを作り出すかもしれない。

 自然の本質は、きっとその奥行きにあるのではないかと思う。簡単にわかるものではないし、割り切れるものでもない。不自由で不便なところに面白みがあると、匠なら言うだろう。

 一人ひとりが、匠のような味わいのある人生を生きるようになると、現在社会のような利便性追求の社会が、なんと退屈でつまらないものかということになり、あっという間に、利便性至上主義は廃れていくことになるだろう。

 その一瞬一瞬が快適や楽チンであることを指向する人が多数であるかぎり、メディアもまた、売れ行きを気にしてその種の情報ばかり満載し、世の中全てがそうしたものを求めているかのように錯覚させられてしまうが、その騒音に掻き消されているものの、もう少し長い時間を通して、しみじみと面白いなあと思える人生を指向する人の声は、ひっそりと囁かれており、今後さらに増えていく予感もある。