壊れるものと、コドモのこころ

 風の旅人の復刊第2号(2013年6月1日発行)のテーマ、「コドモノクニ」を考えるうえで、記憶の中に蘇る一つの光景がある。
 幼稚園に通っていた頃の息子が、1リットルの牛乳瓶を庭の階段で落として、大泣きしていた。
 朝、新聞と牛乳を取ってくるのが息子の仕事なのだが、大きな牛乳瓶を二本と新聞を脇に抱えて、親父の大きなサンダルを履いてヨタヨタと階段を上ろうとして、牛乳一本を手元から滑らせてしまったのだ。
 そういう時、子供は大泣きするのだが、それは親に叱られるからなのではない。私も妻も、子供が親の手伝いをする時に失敗しても叱ることはないので、子供は子供なりの感覚で、牛乳瓶が壊れて、白い液体が飛び散る光景を見て、何かしら強い痛みを感じたのだ。
 家の中で長い棒を振り回して照明灯にぶつけてしまい、ガラスの破片が床に散らばった時も、叱っていないのに泣き続けていた。
 叱られるから泣くのではなく、自分の中に生じる痛みに耐えきれずに、泣いている。そういう光景を何度か見ていると、どんな幼いコドモでも、親が教えなくても自らの心で、取り返しのつかないことを感じているのだということがわかる。
 勉強にしても、親が口うるさく言わなくても、コドモは、今、自分がやらなければならないことが何なのかを自分なりに感じている。今という瞬間は、二度とやり直せないことを感じている。小学生のコドモだって、試験前に風邪をひいて熱を出したら、ふがいない自分に悔しくて涙するのだ。
 と同時に、壊れても元に戻るものの場合、たとえば小さなピースを積み上げたレゴブロックの城などが何かの拍子に壊れても、小さなコドモはそんなにショックを受けずに、また一から平然と組み立て直している。大人は、せっかくここまで作ったのにと、わりと簡単に投げ出したりするのに。
 失敗が尾を引くのは大人。コドモは、すぐに気分を切り替えることができる。やり直しがきくものに対しては、コドモの方が大人より柔軟だと思う。
 だからこそ、元に戻らないもの=かけがえのないもの、に対しては、コドモは大人より敏感であるのかもしれない。そして、それは、“いのち”を知る感覚なのではないかと思われるのだ。
 コドモの頃、叔母が若くして癌で亡くなった時の光景を、今も鮮明に覚えている。飼っていた犬がいなくなってしまった時の犬小屋のガランとした光景もよく覚えている。悲しかったのかどうか覚えていないが、物事が存在していた時と、存在しなくなった時の落差をコドモは身体全体で感じ、その感覚をずっと身体にとどめている。
 コドモは、物をツールとして扱うのではなく、”存在感あるもの”として受け止めている。
 ツールは、取り替え可能なもの。”存在感あるもの”は、唯一無二だ。
 かけがえのないもの、唯一無二のもの、存在感あるもの、取り替えのきかないもの、そういうものを失った時に感じる痛み。それが、いのちを知ることなのではないかと思う。
 だから、いのちは、生物だけを指す言葉ではない。生物か無生物かという分別を抜きに、存在感あるものを失うことに対して痛みを感じることが、いのちを知ることなんだろうし、コドモは大人よりも、そのことに敏感なのではないかと思う。
 人間社会で育つ過程で、コドモは、直接的に、間接的に、大人から様々なことを学習していく。
 今の教育、世間に流布する情報、大人がコドモに見せる姿は、その多くが社会に適応し成功し快適になることが基準になっており、その目的を達する為に、代替えできるものなら何でもいいと、物事を消費する方向へと意識を誘導することになる。つまり、形だけのものですませたり、形式的なもので評価してしまう、ということが普通になってしまう。
 コドモは、そこに大人の欺瞞生を感じ、時々、激しい憤りを感じる。
 大人からすれば、その種の憤りは、”青い”ということになる。「オマエも大人になればわかる」と。
 私は、「形だけのものですませる、形式的なもので評価してしまう」ようになってしまうかどうかが、大人とコドモの大きな分岐点だと感じている。だから、年齢的に成人に達していなくても、プロフィール、肩書きなどを重視するようになっていたら、それはかなり大人社会に毒されているということだ。
 現代社会は、プラスチック製品で溢れている。落としても壊れないものだけで生活することも可能になっている。次々と消費されていくデジタル情報もそうだろう。そういう生活が、私たちから、”かけがえのない”という感覚を希薄化させていく。そして、そういうものばかりで日常が埋め尽くされると、“いのち”のデリカシーがわからなくなる。
 “壊れる物”が具えている繊細さと付き合わずに成長すると、壊れやすいものが持っている味わいとか、かけがえのなさがわからなくなるし、壊れるものを見る時の痛みもわからなくなる。
 
 戦後の日本社会では、壊れやすく扱いにくいという理由で、身の回りからガラス製品や陶器を排除してきた。
 壊れにくいものが良質という発想で、競争社会においては壊れにくい物が勝ち残る。その結果、壊れやすいものは排除され淘汰される。かりに壊れるようなことがあっても、修理するという発想はなく、クレームをするか、捨てるかのどちらかだ。そうしているうちに、人間の心は、壊れることに対する耐性が無くなった。壊れるものの前で堪え忍ぶことができなくなった。壊れるものを見て痛みを感じたくないから、「自分の目の届かないところに追いやってくれ」と思うようになった。
 そのように、ものごとの”かけがえのなさ”に対して目を背けたまま、「平和」とか「幸福」が唱えられる。
 平和とか幸福という言葉を使っているけれど、それは、自己都合の「快適」や「安楽」や「安心」を主張しているにすぎず、個の快適、安楽、安心を寄せ集めたら、全体として平和や幸福とは逆の方向のものになる可能性が高い。全体としての平和や幸福は、物事のかけがえなさや、他者の痛みに対する鈍感さから生じるとは思えないからだ。
 コドモというのは、年齢的に未成年の人間ということではない。
 形だけのものですませることに抵抗を感じ、存在そのものの在り方が大事だという本能が疼いていること。
 元に戻らないもの=かけがえのないものを嗅ぎ分けるいのちの感覚が鋭敏であること。
 再び自民党政権となって、国民が政権に期待することは、経済復興がダントツだと報道され、自民党はその期待に応えると主張している。そして、国民の平和や幸福の為に、原発再稼働や、国防意識を高めることの必要性が説かれる。
 「現実がこうだから、しかたがない」
 大人は、すぐにこの言葉を使う。
  しかし、これから先、これまでの数十年の常識(現実)が通用し続ける世界である筈がない。世界の状況は大きく変わっている。
 そのことを覚った上で、大人ができる最善のことは、コドモの感覚を信頼し、そこから生まれてくるであろう新しい世界に期待すること。と同時に、我々が生きてきた時代がどういう価値観に基ずくもので、なぜそうせざるを得なかったのかを、きちんと伝えること。それが出来て初めて、我々もまた、大きな時代の流れの中で、唯一無二の他に取り替えのきかない時代を生きてきたのだと伝えられる。否定する必要もなく、だからといって意固地になって正当化する必要もない。時代もまた、”いのちあるもの”の一形態だった。だから、その中には、数多くの痛みがあった。今という一瞬は二度と返らないという”いのち”の感覚は、必死で生きている全ての人間にとって時代に関係なく普遍であり、ともするとゆるぎがちな人間性への信頼を取り戻す鍵は、そこにしかないと思う。