繰り返されるものと、繰り返してはならないものの違い。

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石巻市 破壊された車が、まだ山のようにある)

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石巻市 津波と火災の被害を受けた門脇小学校)

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東松島 野蒜 津波で防風林はなぎ倒された。

 松島は、向こうに見える島々の裏側で、津波は届かなかった。)

 2011年の3月に石巻東松島、南三陸気仙沼を車で走らせてから、同じ場所を何度も訪れてきた。津波に破壊された場所、その後の火事で爆撃を受けたような焼け跡、それがいつしか見渡すかぎり草ぼうぼうの風景になり、海辺には、瓦礫が山のように積み重ねられていた。そして、今回は、一面、雪に覆われた世界が広がっていた。

 以前は、東北自動車道を通って車で行ったり、仙台まで新幹線で行って、そこから先はレンタカーを利用した。今回も車で行くつもりだったのだが、大雪の影響で東北自動車道が通行止めになっていることもあり、急遽、新幹線に変更した。新幹線で仙台まで行くと、仙石線が松島まで開通しており、そこから臨時バスで石巻矢本まで行けるし、さらに、南三陸気仙沼まで鉄道や臨時バスを乗り継げば行けるようになっていた。

 何度か東北自動車道で行っていた時は、被災地は随分と遠く感じていた。レンタカーでまわっていた時も、被災地のホテルが一件も開業しておらず、復興活動に携わる人達が仙台に宿をとって車で通っていたものだから、三陸道がいつも混雑していて随分と時間がかかった。しかし、今では、石巻、南三陸気仙沼でもホテルに泊まれる。

 東京を出発して仙台で仙石線に乗り継いで松島方面に向かう列車内は、東京近郊と変わらない雰囲気で、スマートフォンをチェックしたり、賑やかに語らう学生で溢れていた。被災地方面に向かうという感覚はまるでなく、途中、津波の被害の大きかった多賀城あたりを通過していくのだが、ごく普通に車や人が行き交っており、たった二年だけれど随分と変化したなあと思いながら外の光景を見ていると、あっという間に松島海岸に到着した。東京を出てから、三時間ほどしか経っていなかった。

 震災後、取材で何度か訪れた時、松島の町だけは被害を受けておらずホテルが開業していたため、ここを拠点にして、石巻閖上を訪れていた。

 その時と同じホテルに泊まり、翌朝、松島から石巻方面に臨時バスで向かい、途中、東松島の野蒜で途中下車した。

 松島と東松島は、車で30分もかかるかからないかの距離だが、津波後の光景は大きく異なっていた。松島は、太平洋に突き出た半島の後ろに隠れるように位置し、かつ多数の島が防波堤のような役割を果たしている。だから津波がこなかった。それに対して東松島は、広々とした太平洋と直に向き合っている。海岸線の防風林はなぎ倒され、住民が避難していた小学校を津波が飲み込み、多くの犠牲者が出た。

 その生々しい光景が目に焼き付いているが、今回、東松島の野蒜でバスを途中下車した時、以前、歩き回った場所がどこかさっぱりわからなくなっていた。瓦礫がきれいになくなった真っ平らな大地の上を真っ白な雪が覆い尽くしていたからだ。それはまるで海辺に広がる田園風景のようでもあった。もちろん、人はどこにもいない。しかし、海岸線の道路は開通しており、トラックを含め、けっこうな量の車が走り抜けていく。当時と雰囲気がまるで違い、同じ場所だとは思えない。

 東松島から石巻矢本までバスで行き、さらにそこから列車に乗り継いで石巻市へ向かう。石巻市に開業した訪問リハビリの取材を行う為だ。石巻市では多くの病院が機能しなくなったため、訪問診療医に頼りながら自宅療養をする人が多い。しかし、自宅で寝たきりにならないようリハビリは欠かせない。作業療法士理学療法士が自宅を訪れて、定期的に行う訪問リハビリの必要性が増しているのだ。

 石巻市は、被害の大きかった地域でも建物が残っているところでは、飲食店をはじめ各種の店がポツポツと商いを始めていた。石巻市は大きい町だから、津波が届かなかった地域では、震災後、早い段階でイオンなどのスーパーや、チェーンレストランはオープンしていた。しかし、海岸近くは酷い有様で、6万台とも言われる被災車が無惨な形状であちこちに積み重ねられていたし、津波の直前までそこで生活をしていたということがリアルに伝わってきて、とても生々しかった。今でも破壊された車の処分は進んでおらず、海岸近くの空き地に積み上げられている。

 ただ石巻市の重要産業である製紙工場は津波で大きな被害を受けたが、完全復旧して、煙をもくもくと吐き出していた。

 門脇小学校と、その付近は津波で徹底的に破壊され、さらに火災で焼き尽された。震災後の光景は壮絶すぎて表現できない。石巻市にくるたびに、そこに向かった。この地域の瓦礫撤去は早かった。全壊と半壊の家が混在している所よりも、全てが無に帰しているところの方が、ブルドーザーなどで一挙に事を進めることができるのだろう。震災後すぐの夏には、広大な敷地に雑草が茂り、「夏草や・・・」という風景になっていたことが思い出される。

 ただ、いつ訪れても、門脇小学校だけは、内戦が長く続いていた時のベイルート市街の建物のように、巨大な廃墟としてそこに存在していた。

 今も、この建物を、震災を記憶化する為に残すべきだという意見と、辛いことは忘れて先に進みたいので壊すべきだという意見があるのだと地元の人に聞いた。

 多くの人命が失われた出来事を記憶として残す為の建物として、広島の原爆ドームがある。

 しかし、私の感覚では、門脇小学校と広島原爆ドームは別のものになる。広島に落とされた原爆は、人間の愚かすぎる行為であり、津波は自然災害。自然災害は、過去から現在まで何度も繰りかえされてきた。そして今後も繰り返される。繰り返されるということを前提に、それを肝に銘じて、人間は生きていかなければならない。だから、敢えてモニュメントは必要ではないと私は思う。自然災害は、必ずしも同一の形で人間を襲うとは限らない。どういう形か、まったく想像もできないことも起こりえる。地軸がズレてしまい、赤道と北極が入れ替わるということも含めて。だから、そういう自覚さえあれば、辛いことは思い出したくないという気持ちに配慮しながら、自然に対する畏怖とか、自分の力ではどうにもならないことがあるということを弁えて、謙虚さを大切にしながら生きていくことは可能だ。

 しかし、原爆は、どんなことがあっても絶対に繰り返してはならないこと。辛い思い出であるとしても、その記憶は絶対に風化させてはならないこと。モニュメントが残っていれば大丈夫ということではないが、その存在を見るたびに、意識するということはある。目先の現実に追われて都合良く忘れるのではなく、意識し続けていくべきことなのだ。意識の継続が、いざという時の判断や決断において大事な役割を果たすことが多いのだから。

 今、モニュメントとして残すべきは、門脇小学校ではなく福島の原発であることは間違いないだろう。原発は、目の前の現実が大切(経済重視)という大義名分によって、都合良く過去の出来事として整理されてしまう可能性が高い。原発事故の記録は、原爆ドームと同じ形である必要はない。その存在を見るたびに原発事故を意識せざるを得ないという、現実に追われて鈍麻してしまう感覚を覚醒させるスイッチが必要であり、その為には何を残すべきなのかを考えて実行しなければと思う。