昨年の3月11日以降、3月、5月、7月、8月、10月、1月と、六度にわたり、気仙沼、石巻、南三陸町、閖上、女川など津波の被害の大きかった地域を取材してまわり、8月くらいから、瓦礫が海岸線に高く積み上げられているのを見てきた。その光景は、確かに凄まじいものだったが、ニュース等で頻繁に報道される「瓦礫が復興の妨げになっている」ということが、どうにもピンとこなかった。なぜなら、瓦礫の山は海岸線に集中的に集められ、瓦礫が取り除かれた町中は、空漠とした荒野になっており、復興の為の建設その他に支障があるようには見えなかったからだ。
建設的復興以前に、津波の場所に戻る人がいるのかどうか、建設するとすれば元と同じでいい筈がなく、だったらどういう風にすべきかが思案されていて、なかなか復興が進まないというのなら話はわかるけれど、「瓦礫が妨げになっている」という言われ方は、どう考えてもおかしい。
田中康夫氏の言うように、神戸という大都市が壊滅した時に発生した瓦礫と、今回、広範囲にわたるけれど神戸に比べて小さな町や村が壊滅したことで発生した瓦礫の総量は、そんなに変わらない。神戸の時は、土地面積が限られているので瓦礫の扱いには非常に苦労したが、今回の震災地は、空白の土地が、神戸に比べて桁外れに多い。なのに、瓦礫処理のことが声高に叫ばれるのは不思議だ。なにかしらの駆け引きがあるのだろうか。
東京都が瓦礫を受け入れたケースでも、けっきょく、東京都や、東電と関係の深い業者に多額のお金がわたることになる。それは私達の税金だ。 東北にお金を落とした方が、よほどましなはずなのに。
http://www.mynewsjapan.com/reports/1507
行政が声高に(莫大な広報費を使って)、被害地域の復興とか絆とか心情に訴える方法で瓦礫処理を訴え、全国の都道府県では、瓦礫受け入れに対して、放射能の危険性をヒステリックに叫んで反対する母親に焦点が当てられる。感情的な二極対立の構造を作り出して人々の目を本質から逸らさせて、背後には利権構造がある。
瓦礫処理を受け持つ業者から見れば、東北の田舎町に積み上げられている瓦礫の山は、宝の山に見えるのかもしれない。政府に働きかけて、東北から自分の縄張りに持ってくるための動きを行ったとしても不思議でないだろう。
東京都に搬入予定の瓦礫処理を受け入れる元請け企業は、東京電力が95.5%の株式を保有する東京臨海リサイクルパワーだと言う。http://gendai.net/articles/view/syakai/135512
テレビ等で、瓦礫受け入れを拒んでヒステリックに叫ぶ母親を、エゴイストの典型のように見せて、国民一人ひとりが、“絆”のために瓦礫を受け入れる心理状態になっていくように導く。しかし実のところ、背後には瓦礫を動かすことで利益を得る者たちがいて、その輩が、国民懐柔のために広告代理店に発注して、メディア等を通じて、少しずつ瓦礫の移動を正当化していく洗脳活動を行なっている可能性。
「瓦礫が復興の妨げになっている」と声高に叫ばれると、震災の時の映像をあれだけ見せられた後なので、そうだろうなと思ってしまうけれど、実際には、瓦礫が、どのように復興の障害になっているのか、政府の言い方だとさっぱりとわからない。学校の校庭に残っているものもあるとか、泥のかきだしがすんでいない家が、どれくらいあるとか、もう少し具体性があれば、それをどうすればいいか具体的に考えることができるのだけれど、復興の妨げ→各都道府県での瓦礫処理 という主張は、あまりにも短絡的すぎる。
現在、海岸線に高く積み上げられた瓦礫を、被害を受けていない地域の業者の利得にするのではなく、埋め立てとか高台の造成地にするなど地元で時間をかけて処理をしながら、地元に、人もお金も集まるような仕組みができないものなのだろうか。
それ以前に、感情的に“絆”という言葉をふりかざしながら、瓦礫を受け入れるかどうかを、人間として良心があるかどうかを見極める踏み絵にする手法は、小泉政権の時の郵政民営化の戦法と同じシーンを見せられているようで、わかりやすいキャッチフレーズと感情にたやすく訴える方法は、近年のメディア+広告代理店+利益関係者が連合して仕掛ける典型的なパターンだ。
自らの信念を持たず、莫大なお金を出してくれるクライアントの方へと安易に動く広告代理店やメディアが作り出すムードに騙されてはいけないと、改めて思う。