ネット上のデジタル情報と、紙媒体のアナログ情報

 紙の新聞と紙の雑誌が読まれなくなり、インターネットやスマートフォンから得る情報で十分だと考える人が増えているらしい。そのことについて色々と分析されているみたいだが、現状を分析したところで、現状への対策にはならない。紙の媒体とネット媒体の情報の内容が大して変わらないのであれば、敢えて、お金を出して紙の雑誌や新聞を買う必要が無いのは当たり前のこと。というより、同じ内容の情報ならば、ネットの方が安くて、早くて、情報が豊富。今後、益々、その種の情報は、ネットですませられるようになるだろう。

 だからといって、紙媒体が必要ないわけではない。ネットよりも、紙媒体の方が、より深く伝わるという情報もある。

 私は、人間というのは大雑把に言って、二つの時間を生きていると思う。一つは、目の前の具体的なことを、どうやりくりするかという短期的な意識の時間。そして、もう一つは、遠い未来や過去につながる漠然としたことを、何となく意識している長期的な時間。前者は、次の旅行、明日行くレストラン、週末に見る映画、買いたい服などなどのことを意識する時間であり、後者は、10年前のあの日、すっごくバカなことをしてしまったなあとか、20年後の自分はいったい何やっているんだろうと、ぼんやり考えて気にしている時間。前者の時間は、切れ切れであり、一つ一つの断片に対してどう対応するかということが問題であり、情報もハウツー的なものが欲しくなる。切れ切れということで、デジタル的な情報処理に向いている。後者は、20年後という遠い先のことではあるが、過去から今、そして今から未来に向かう自分のプロセス全体が大きく関係しているわけで、その大きな流れに対する備えは、次の旅行先を決めることとはまるで違う。ハウツーではなく、心から感じ、考えるための情報が必要であり、自分の手で開いたり閉じたり、繰り返し見たり読んだりしやすいアナログ的なものの方が、感覚と思考のリズムが合うように思う。

 形だけ紙の雑誌であっても、情報がハウツー寄りで、雑誌の中の個々の情報が断片的で、瞬間的に消費されていくものであるならば、それはとてもデジタルと相性がいいものであり、ネットに取って代わられるのは当然だろう。

 私が、風の旅人を復刊させるにあたって紙にこだわったのは、短い時間で問題を片付けるためのハウツーではなく、人生という長い時間のプロセス全体と向き合っていく為の媒体づくりをしているからだ。

 私は、Facebookやブログなどネット上のデジタル情報とも関わっている。そこでの情報は、今日の記事と昨日の記事が別々で、断片的な状態であっても不自然ではない。しかし、風の旅人の場合は、断片的な情報の寄せ集めにしたくはない。部分と部分、部分と全体を呼応させたい。今の号と、前の号、そして次の号が、有機的につながっていかなければならない。うまくいっているかどうかわからないが、少なくとも、作り手の私の中では、そのつながり方が、自然であるかどうか意識されている。単につながればいいのではなく、波のようなリズムと力が宿っているかどうかを常に気にしながら作っている。ネット上と、紙媒体は、情報の伝え方が根本的に違う。

 風の旅人は、やはり紙媒体でないと表現できない世界であり、だから紙にこだわり続ける。

 紙が売れないからネットで、などという発想で取り組む人は、きっと失敗をするだろう。なぜなら、仮に、同じ部数売れたとしても、ネット上の情報に対する対価は低い。だから収益は減少する。さらに、ネット上の情報は、これまで自分達が持っていた流通力という優位性を発揮できない。流通力を持っている限られた存在だけの競争から、流通力を必要としない世界で、さらに大勢の競争相手と、情報の質と量の闘いをしなければならない。多少の読者を獲得することはできるかもしれないが、ネット世界では、読者は分散する。だから、これまでのように収益は得られない。

 紙でだめならネットで、ではなく、紙は紙、ネットはネット、別々で考える必要があると思う。