第1122回 歴史の事実よりも、歴史のリアリティが大事

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相生の松

 京都から、加古川高砂経由で明石へ移動してきた。

 加古川下流、海のすぐ近くに、川の両岸に分かれて高砂神社と尾上神社が鎮座し、ともに相生の松がある。この二つの相生の松は、世阿弥作の能の「高砂」の謡曲で知られ、結婚式では定番の松だ。
 といっても、現代では、「高砂や この浦船に帆を上げて」なんて歌ったところで、いったいどれだけの人が、リアリティを感じることができるのか。
 リアリティというのは現実感。歴史というものが、いつしか、事実の証拠集めの学問になってしまって、現実感の乏しいものになってしまった。現実感が乏しいというのは、自分にとって無関係という認識になってしまうということだ。
 しかし、自分が生きている場所の歴史が自分と無関係になってしまうというのは、自分という存在が、どこから来て、どこへ行くのかという問いすら立てられなくなってしまうということ。つまり、そんなこと考えてもしかたない、今目の前の現実を生きるのに精一杯なのだからと。
 でも、今目の前の現実って、あらためて考えてみると、いったいどういう時空間なのかと思ってしまう。政府なのか、メディアなのか、それとも他の何ものかなのかわからないけれど、自分ではない何ものかが作り上げた価値観のなかで、せっせと働き、時々、娯楽し、物を消費している。この目の前の現実に、何も疑問を持つこともなく自分を委ねてしまって本当にいいのだろうか。
 目の前の現実を生きることで精一杯と言う時の目の前の現実って、それほど自分の生を傾けるための大義名分になるほどご立派なものなのか。
 なんてことを考えだすと、虚しさにとらわれてしまうから、とりあえず何も考えずに、今を消費することに一生懸命になる。
 しかし、歴史の中の世界を、自分たちの現実として引き寄せて生きている人たちは、今目の前の現実という刹那的な時間ではなく、もっと大きな時間の中で、自分たちがどこから来て、どこへ行くのかということに対する確信的なものをもって生きている。
 アメリカ先住民やアボリジニなど口承伝承をしっかりと生活の中に根付いていた人たちはそうだった。
 彼らは、語り継がれる歴史が、事実かどうか、その証拠はどうか、という重箱の隅をつつくだけの行為を正当化するほど偏狭ではなかった。
 歴史は、事実かどうかという頭で処理することではなく、自分たちの中に生き続けている現実として意識できるかどうかだけが問題なのだ。歴史はまぎれもなく現実であり、それが自分のなかに生き続ける現実となっていないのであれば、それは、歴史の伝え方が歪んでしまっているからだろう。
 今日、加古川から明石へ移動し、生まれ育った藤江の海岸近くの昔住んでいた家に立ち寄った。数年前までそこにあった家、40年以上も元のまま存在していることが不思議な感じに思われた家が、新しいマンションに建て替えられていた。
 しかし、その小さなマンションの敷地にある地滑りを防ぐためにコンクリートで固めた壁はそのまま残っていた。
 私が小学5、6年の時、毎日のようにボールをぶつけてキャッチングの練習をしていた壁が、そのまま残っていた。いろいろな野球選手の投球フォームを真似してボールを壁にぶつけて、跳ね返ってくるボールを受けるという単調な運動の繰り返し。それを飽きもせずに毎日のようにやっていた。跳ね返ったボールを取り損ねて、隣にあった駄菓子屋に飛び込んでは、店のおじいさんに小言を言われたのだが、その店の跡地は小さな駐車場になっていた。
 この壁の前に立ってボールを投げていた私の現実は、私の中にしっかりと残っている。懐かしいとかそういう感覚ではなく、今の自分とは別に、幼い自分がここに間違いなく存在していたのだというリアリティ。
 色々な聖域などを訪れる時も、間違いなくここに存在していた人たちの息遣いのようなものを感じ取れるかどうか、というのが、自分にとってとても大事だ。それを感じ取れる時、とても大きな時空を共有している感覚になり、現代社会の目の前の世知辛い現実が、なんとなく白けたものに思えてくる。
 政治家の顔と、その答弁を思い浮かべるだけでも、なんともつまらなく、味気なく、無味乾燥なことを、日々、言っているだけだということがよくわかるし、評論家や各種専門家と称する人の言葉も、同様だ。ニュースキャスターとかコメンテーターなど論外。そこで発せられる言葉が、私たちが自分のすべてを捧げるべき目の前の現実であっていいはずがない。コロナ騒動のバカバカしさも、ここに原因がある。
 現実というのは、今目の前の現実に限定されたことではなく、もっと大きな時間が確かに流れているというリアリティだ。それが感じ取れなくなっているから、多くの人は、目の前の現実のことしか言わなくなってしまっている。
 私たちから、大きな時間の流れを奪ったものは何なのか?
 その一番の犯人は、教育だと思う。人にものごとを教える立場の人が、大きな時間の流れのリアリティを持っていないということが、一番のネックになっている。その結果、右も左も同じように大きな時間の流れがわからない人がリーダーに選ばれて(つまり、目の前の現実だけのことだけをたくみに主張する人)、多くの人が、そのリーダーに追随するという滑稽な社会になっている。

 

 

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