源氏物語の中でも重要な鍵を握っている住吉の神は、光源氏の運命が陰から陽へと転換していく明石の地と深い縁がある。その住吉の神は、第15代応神天皇の母、神功皇后と深く結びついており、さらに神功皇后の夫である第14代仲哀天皇の父ヤマトタケルの誕生とも縁がつながっている。
明石から加古川にかけての地域が、ヤマトタケルが生まれた場所であることについては、前回のブログで書いたが、ヤマトタケルの物語が史実か神話かに関係なく、ヤマト王権の全国統一の象徴的存在であるヤマトタケルの誕生の背景が示していることは、何かしらの史実と結びついているはずだ。
ヤマトタケルの父、第12代景行天皇は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶るために、播磨の加古川の地を訪れた。
播磨稲日大郎姫の父、若建吉備津日子(わかひこたけきびつひこのみこと)は、第10代崇神天皇の時、吉備討伐に派遣され、その途上の播磨を平定し、その後、播磨の国の実力者となっていた。
播磨平野を流れる加古川の源流部の氷上は、日本海側と太平洋側とのあいだの分水嶺として最も高度が低く、90mほどしかない。そして、その源流部の傍を流れる由良川を遡り、その支流の大手川で若狭湾の天橋立近くに至る。天橋立を渡ると丹後一宮の籠神社で、アメノホアカリ神を祀っている。
アメノホアカリ神は、住吉大社の歴代宮司の津守氏の祖神である。
第12代景行天皇は、息子のヤマトタケルと同じく日本統一のために各地に遠征した大王であり、九州の熊襲平定などが記録されているが、最初の妃が播磨稲日大郎姫で、その婚姻の背景には、この地の勢力との同盟関係が必要だったと考えられる。
『播磨風土記』によると、景行天皇が播磨稲日大郎姫が身を隠している小島へ渡るため、現在の加古郡播磨町で、御食事(みあえ)を行い、それ以後、そこは阿閇(あえ)の村となったと記される。現在、その場所に阿閇神社が鎮座している。
この御食事(みあえ)について、景行天皇が食事をしたとか神に食事を捧げたとか説明されていることが多いが、正確には、「あへ」は”饗”であり、「饗応」のことで、”酒食を供してもてなすこと”である。この行為は、現代の政界やビジネス界においても慣習として伝わっているが、同じものを飲食することで結束を固めることが目的となっている。
さらに、この慣習は、神と人間とのあいだでも行われる。現代でも、神社の祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する共飲共食儀礼、直会(なおらい)が行われる。神霊が召し上がったものを参加者が頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するとともに共同体の結束を強めるのだ。
景行天皇が御食事(みあえ)を行った地に鎮座する阿閇(あえ)神社の祭神は、住吉三神と神功皇后である。
いにしえより住吉大社に伝来し、その由来について説明する『住吉大社神代記』では、阿閇浜と神功皇后の関係について、次のように説明している。
熊襲二國を平伏(ことむけ)、新羅國より還り上り賜ふ時、鹿兒(かこ)に似たるもの海上(うみ)に満ちて浮び漕來(きた)れり。見る人皆奇異(あやし)み、「彼れ何物ぞ。」と云ひて鹿兒に似たる物を問ふ。近くに寄りて筑志(つくし)の埼に來り着きて見れば、藪十餘人(あまたのひと)たち、角ある鹿の皮を着て衣袴(いころも)と着(な)す梶取(かじとり)・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。皇后、大神に饗を奉らむと、酒塩を以て魚に入(そ)へて奉り賜ふ。號に阿閇濱(あへのはま)と号けて寄さし定め奉り賜ひき。其の時同じく津守宿禰の遠祖を奉仕(つかへまつ)らしめ賜ひき。皇后、合掌(みてをあは)せて誓(うけ)ひ宣(のたま)はく、「寄さし奉る吾が山河海の種種(くさぐさ)の物等を、若し妨げ誤る人あらば、天地のわざはひを蒙り、痛患(くるしみ)に遭ひ、子孫(うみのこ)絶滅(た)へて天下凶亂(あめのしたみだ)れむ。」と。(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)
「三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいた。それで、その地を、鹿兒(かこの)濱と名付けた。神功皇后は、住吉の神に饗(あへ)を捧げるため、酒と塩で仕込んだ魚を捧げた。そこで、阿閇濱(あへのはま)の名付けた。その時、津守氏の祖を、神に仕えるものと決めた。神宮皇后は、合掌しながら、大神の言葉をおうけになって、大神より寄さし奉る(委任されている)山河海の恵みを損なうようなことがあれば、天地の禍が起こり、苦難に遭遇し、子孫も絶滅し、世の中は乱れると告げられた。」
この内容から判断するに、神功皇后というのは、どうやら住吉大神の依り代であり、神の言葉を媒介する巫女のようだ。
いずれにしろ、播磨の阿閇の地は、ヤマトタケルの父である第12代景行天皇と、ヤマトタケルの息子である第14代仲哀天皇の皇后の神功皇后が、御食事(みあえ)を行ったところだった。
そして、平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』においては、この播磨の地に流れてきた光源氏が、明石入道一族と交わることで運命を好転させ、明石一族は、後に天皇家の外戚となり栄華を誇るようになる。
この播磨の地に縁の深い住吉神がどこからやってきたのか、『住吉大社神代記』に次のように書かれている。
巻向の玉木の宮に大八嶋國所知食(しろしめ)しし活目天皇より橿日宮の氣「帶」長足姫皇后の御世、此の二御世(ふたはしらのみよ)、熊襲并びに新羅國を平伏(ことむ)け訖(を)へ賜ひ、還り上り賜ひて、大神を木國の藤代嶺に鎮め奉る。時に荒振神を誅服(つみな)はしめ賜ひ、宍背の鳴矢を射立てて堺となす。「我が居住はむと欲(ほ)りする処は大屋に向ふが如(ごと)、針間國に渡り住はむ。」と。即ち大藤を切りて海に浮かべ、盟(うけひ)して宣り賜はく、「斯(こ)の藤の流れ着かむ処に、將に我を鎮祀れ。」と宣りたまふ時に、此の濱浦に流れ着けり。故、藤江播磨国明石郡葛江郷と号く。(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)
これによれば、熊襲と新羅を平定した後、神功皇后が、住吉神を、紀の国の藤代嶺(和歌山市伊都郡富貴村)に祀ったが、その後、住吉神が、「自分は播磨国に移り住みたいので、海に藤を浮かべて、それが流れ着いたところに自分を祀るように」と申され、その通りにしたら、藤は、明石の浜に流れ着いた。そこは、今でも藤江という地名になっている。
紀伊国の藤代嶺は、吉野の地において、吉野川に注ぐ二つの丹生川の上流域にはさまれたところだが、なぜか、交野の”いかるが”である磐船神社や奈良の”いかるが”の地の真南に位置する。そして、その藤代嶺から明石の藤江を結ぶラインは、夏至の日に太陽が沈む方向のラインなのだが、その延長上が、西播磨の揖保川下流域の太子町の”いかるが”なのである。そして、明石の藤江から太子町の”いかるが”のあいだが、高砂とか相生の松で表される古代からの和合の地、加古川である。
そして、最初に住吉神が祀られていた藤代嶺は、吉野の丹生の地なのだが、紀伊国に数多く祀られている丹生都比売神と、住吉神が、重なっている。
播磨国風土記・逸文には、「息長帯日女命、新羅を平定(コトムケ)せんと欲して下りましし時、衆神(カミガミ)に祈り給う。時に、国堅大神(クニカタメノオオカミ)の子の爾保都比売命(ニホツヒメ)、明石の国造・石坂比売命(イワサカヒメ)に著きて、『よく我が前を治め奉らば善き験(シルシ)を出して、ひひら木の八尋鉾根底附かぬ国、少女の眉引きの国、玉匣(タマクシゲ)かがやく国、苫枕宝ある白衾(タクブスマ)新羅国を、丹浪もちて平伏(コトムケ)賜はむ』と。かく教(ノ)り賜ひて ここに、赤土を出し賜ひき。その土を天の逆鉾に塗り、神舟の艫舳(トモ)に建て、又御舟の裳(スソ)と御軍(イクサ)の著たる衣を染め、又海水を搔き濁らせて渡り賜ふ時、底潜(クグ)る魚、又高飛ぶ鳥等も往来(カヨ)はず、前に遮(サヘ)らざりき。かくして新羅を平伏けおへて還り上らして、すなわち其の神を紀伊国・管川(ツツカワ)の藤代の峯に鎮め奉りき」とある。
爾保都比売命とは丹生都比売のことだが、新羅遠征において、神功皇后が神に祈ったところ、丹生都比売神が、明石の国造、石坂比売命の口を借りて託宣を行い、自分を大切に祀れば、事は成就すると伝えた。そして、これを聞いた神功皇后は、神が差し出した赤土を天之逆鉾に塗って船の艫軸に建て、船体、武具にも塗り、自分の衣装や兵士の衣服も染め、その呪力をもって軍を進めると、何にも遮られることなく海を渡って新羅を平定することができたので、凱旋の後、神の加護に謝意を示され、紀伊国・管川(ツツカワ)の藤代の峯に祀ったということになる。
この逸文は、播磨風土記そのものから失われてしまっており、釈日本紀が引用しており、『播磨風土記』における欠文の明石郡の伝承でないかとされている。
松田寿男氏の『丹生の研究』という書物によれば、管川の藤代の峯は水銀含有率の高い土地なので、水銀と関わりの深い丹生都比売の降臨地として不自然ではないとされているが、この場所が、『住吉大社神代記』によれば、神功皇后によって住吉神が祀られたところと同じなのである。
いずれにしろ、住吉神、丹生都比売神とともに、神功皇后の三韓遠征において大いなる支援をしていることに違いなく、これが一体何を意味しているのかが重要である。
話を景行天皇が播磨稲日大郎姫を娶る時のことに戻すが、景行天皇が、摂津の国の高瀬の渡船場に着き、渡し守に淀川を渡りたいと頼んだところ、渡し守の紀伊国の人・小玉は「私は天皇の家来ではありません」と答え、天皇が、なんとか渡してくれるように頼みこんだという話があった。
紀伊国の渡し守は、自分は天皇の家来ではないのだと、堂々と景行天皇の依頼を拒んでいるのである。ヤマト王権にとって、紀伊国は、支配圏ではないのだ。
この紀伊国にゆかりのある住吉神、もしくは丹生都比売神と関わりの深い人たちが、紀伊国から明石、すなわち播磨の地へと移動していった。
もしくは、播磨の加古川(その上流部の氷上から、由良川を経て若狭湾の籠神社周辺に及ぶ地域)は、目の前の淡路島、そして紀淡海峡を経て紀ノ川(吉野川)、そしてヤマトの地へとつながっており、古代、この水上交通を担う人たちが強大な勢力を誇り、景行天皇も神功皇后も、彼らの力を必要としたということかもしれない。そして、その勢力は、アメノホアカリ、住吉神、丹生都比売神と関係している。
ヤマト王権にとって、この水上交通を担う勢力との和合が、外敵を退け、国を一つにまとめるうえでも重要だった。
そして、播磨の地での和合は、平安時代に書かれた源氏物語のなかの光源氏と明石一族の結びつきへと重ねられ、中世においては、世阿弥による能『高砂』の謡曲へと昇華される。
『高砂』の舞台は、播磨の加古川下流の高砂神社や尾上神社で、ともに相生の松で知られている。
四海波静にて、国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。
あいに相生の、松こそめでたかりけれ。
げにや仰ぎても、事もおろかやかかる代に、住める民とて豊かなる。
君の恵みぞありがたき、君の恵みぞありがたき。
高砂の、尾上の鐘の音すなり。
暁かけて、霜は置けども松が枝の、葉色は同じ深緑。
立ち寄る蔭の朝夕に、掻けども落ち葉の尽きせぬは、
真なり松の葉の散り失せずして色はなほ、真折の葛ながき世の。
末代の例にも、相生の松ぞめでたき。
高砂や、この浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。
月もろともに出汐の、波の淡路の島影や。
遠く鳴尾の沖過ぎて、
はや住江に、着きにけり、はや住江に、着きにけり。
千秋楽は民を撫で、万歳楽は命を延ぶ。
相生の松風、さっさつの声ぞ楽しむ、さっさつの声ぞ楽しむ。
結婚式などでの定番の『高砂』は、夫婦愛や長寿を謡う大変めでたい能楽として広まっているが、波風がおさまった天下国家の平和を祝う祝賀の謡曲でもある。
とくに最後の部分は、住吉明神が現れて神舞を舞い、御代万歳、国土安穏を祝う。
しかし、この地における和合が、古代において特に強調されているということは、当然ながら、深刻な逆の事態もあったということではないか。そのあたりのことを、さらに探ってみたい。
つづく
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