自己意識を超える当事者意識

 新年明けて、一人の写真家から自らの抱負をこめたメッセージをもらった。

 「カメラを介してではありますが、できるだけ当事者であり続けたいと思っています。」

 まだ若く無名のこの写真家の写真を、私は一目見て「風の旅人」に掲載することを決めた。

 有名無名に関係なく、これまで私が「風の旅人」に掲載してきた写真は、「カメラを介してはいるけれど、当事者感覚を失っていないもの」なんだなあと改めて認識した。

 私は、意味深で象徴的な写真は、わざとらしくて嫌いだ。また、客観的スタンスに徹するなどと言いながら自己都合的に場面を切り取る報道写真も嫌いだ。

 私は、ドキュメント写真、自然写真、日常的な写真という分別なく、「風の旅人」に掲載していて、ジャンルにはこだわらない。といって、なんでもありでもない。「風の旅人」に掲載する写真のなかに一貫性があるとすれば、それは、「当事者感覚を失っていないもの」という視点なのかもしれない。言い換えるならば、「自分ごと」ということだ。

 そして私は、何を被写体として選択するかではなく、どう取り組むか、ということを重視したい。

 選択は偶然にすぎず、取り組み方こそが必然を生み出すのだと思うからだ。運命というものは「選択」ではなく「取り組み方」によって変え得るのではないか。  

 対象に対して当事者であろうという意識で取り組むことに、私は、狭隘な自己意識を超える術が隠されているような気がする。

 人間であるかぎり自己意識を完全に消すことは難しいと思うが、自己意識を超えて、自分以外のことを自分ごとと受け止めて行動することは、時には可能ではないか。

 優れた表現からは、作り手のなかで閉じて完結してしまっている自己意識ではなく、他者に開かれた祈りとか熱意のようなものが伝わってくる。それが作品の生命になり、その生命が強ければ強いほど、見る側は触発される。

 私は作品を見る上で、そうした感覚が得られるかどうかを、大事にしたいと思っている。 



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