千里魚眼による「還ってくるアルトー」を見て

 先週末、風の旅人の編集で時々手伝ってもらっている、東京外語大の今福龍太ゼミの阪本佳郎君の誘いで、俳優でも劇作家でもあり演劇組織「夜の樹」を主宰する和田周さん達と、聾唖者の役者が演じる演劇実験室「千里魚眼」の『還ってくるアルトー』を見る機会に恵まれた。色々な側面で衝撃を受けた。

 アントナン・アルトーは、1896年生まれで、1948年に亡くなった俳優であり、演出家であり、劇作家であり、詩人だ。1936年アイルランド旅行中に精神病院に収監され、亡くなる1年前に退院する。幼少に罹患した髄膜炎の後遺症で、少年時代から全身苦痛に襲われながら、その苦痛と向き合いつつ深い思索の言葉を紡ぎ出した。その思想はドゥルーズデリダに影響を与え、その演劇論はピーター・ブルックらに受け継がれるらしいが、そのあたりのことは、ちょっと私にはわからない。ただ、身体や心というものへの意識と思索は、底深いものがあると感じる。
 アルトーの思考を、凡庸な身体と意識しか持ち合わせていない私が理解するのは至難の業だが、身体というものへの問題意識は、私も少しは持ち合わせている。

 身体といえば、心臓や胃腸など生命活動を維持するための器官を持った存在と連想するのが現代人だが、その程度のものではなく、どちらかというと、我々が容易く使う”心”と連関したものであり、その”心”は、これまた我々が容易く使う”意識”とは別のもの。”意識”は、頭の中で言語を介して意識したり意識しなかったりするレベルのことに対して、”心”は、身体と直結したところにあるのだけれど、言語意識の膜によって、その存在がかすんでいる。心臓とか胃腸といった器官も、言語によって括られた意識が身体に侵入しているだけであって、本来、身体はそうした意識に侵されずに存在している。しかし、言語意識で曇らされた我々現代人は、その身体が、わからない。だから、その潜在能力も引き出せない。アルトーは、精神の危機的状況の中で、本来ある筈の身体を再構築し、再獲得しようと喘いでいた。
 
 それはともかく、演劇実験室『千里眼」によるアルトーの芝居は、聾唖者が演じている。聾唖者の言語意識がどうなっているのか、私には見当もつかない。しかし、彼らを見ていて思うのは、私のような一般的現代人が、かなり喪失してしまっている身体性の躍動だ。その身体性というのは、スポーツトレーニングで獲得する類のものではない。世界そのものとダイレクトに交信する身体能力のこと。
 先日、視覚障害者の音楽家と二日間をともに行動する機会に恵まれた。また目が見えないのに絵を描き続けている画家とも親しくさせていただいている。目が見えない人は、全身をアンテナにしていることが、傍にいるだけで敏感に伝わってくる。彼らの身体の感度は、きっと私の身体の感度の比ではないだろう。
 しかし、聴覚障害者の場合、目が見えているわけで、視覚障害者ほど全身がアンテナになっている必要がないのではないかと、かってに思ってしまうが、どうやらそうではないみたいなのだ。
 聾唖者の演じるアルトーの劇を見た後、会場から質問や意見を受け付ける時間があった。ほとんどが聾唖者だったので、彼らは、手話で自分の感想を述べたり質問をしたりする。その手話を通して、同じく聾唖者である俳優達と、劇のエッセンスを共有していく速度とか深さが、傍で見ていて尋常ではない。「俳優が発しているオーラが、私にははっきりと見える」と、一人の女性が言う。比喩ではなく、まさにはっきりと見えているということが伝わってくる。
 我々、一般的な言語意識を持っている者は、「何か心が動くのを感じることはできる」。でもその感覚は抽象的で、手話を介して聾唖者が表現しているような直接的で具体的なものではない。身体は具体的なものだから、身体そのものの感じ方が世界を感じとる全てであるならば、その感覚は、きわめて具体的なものになるだろう。
 「心が何か感じている」と言語意識を持つ我々が表現する時、その感覚は、心という言葉を介することで、抽象的なものになる。心臓や内蔵などの器官という意識で身体を分別する私たちは、心という器官がないかぎり、それがどこにあるのかわからないから。
 おそらくアルトーが、命がけで獲得しようとした身体は、言語意識の分別を滅却したところに、世界そのものとダイレクトに交信するものとして、存在するのかもしれない。
 その身体を、聾唖者は、当たり前のものとして身近に感じているのかもしれない。
 聾唖者がアルトーの劇を演じ、聾唖者の観客がそれに感動し、その感動を、ダイレクトに、俳優と対等の関係で、手話を通して伝える。手話という話法は、我々の通常の会話のように発信が能動的で、受信が受動的という構図ではなく、発信も受信も能動的で対等で直接的だ。 
 音を遮断された人は、目を通して、世界そのものをつながるのだが、その目は、我々のように脳の視覚領域を刺激する情報センサーではなく、それこそ視覚以外の脳内のあらゆる領域を刺激して発動させるセンサーなのではないか。
 そして、話はかわるが、優れた写真家にも、そのように、言語意識に曇らされることなく、目を通して世界そのものと、直接的に、能動的に、対等に、つながる人がいるのではないかと私は思う。その写真家の示す写真は、世界そのもののリアリティを、意識言語に曇らされることなく、具体的な像として提示することができる。もしかしたら聾唖者の目に映る世界のように。偶然にも、「還ってきたアルトー」の主役をつとめた庄崎隆志さんが、『風の旅人」の愛読者であると劇の後で聞いて、とても嬉しかった。

 「千里魚眼」によるアルトーの劇は、未だわけのわからない余韻を私の身体(心?)に残している。意識、身体、心、そして世界・・・、それらを新たに探求し直し、構築し直し、提示し直すこと。今この時代に何かを表現するというのは、そういうことであり、もしそうでなければ、既に我々が浸食されてしまっている既成の言語意識で固定化されている世界や人間の在り方を、コピーし、さらに増殖させ、ますます身体と世界の一体感覚から遠ざけるだけになってしまうだろう。