信じることと、現実を直視すること

 クリントイーストウッドが監督した映画「硫黄島からの手紙」を見る。戦争娯楽映画だとかってに決め込んでいたのだが、信頼できる人が誉めていたので、見に行った。

 そして、戦争の痛ましさと愚かさに胸をえぐられるような思いになった。

 「天皇陛下のために殉じることには躊躇がないけれど、無駄死にはしたくない」という人間の心からの叫びが、硫黄島という本国に見捨てられた玉砕戦の現場に激しく渦を巻いていた。

 太平洋戦争において多くの日本人は、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。そして、今日でも、神の名においてテロリストが自爆テロを行い、正義の名において、悪魔的な殺傷能力を持った武器によって報復戦が行われている。

 そして、それらの大義名分と結びついた死が名誉あるものとされ、崇高なものに奉られる。観念の世界で美しく輝くものも、実際の現場では、無駄死にという言葉が相応しいものになる。この観念と実際の現場の差に、何かとても大事なことが秘められているように思う。

 とりわけ極限状態において、人間の観念は、誇大妄想になる。その妄想のなかの強い陶酔感によって、人間は自らの葛藤を封じ込める。考えて疑うことの苦しみを放棄して、自らを超えた大きな運命に殉じようとする。「天皇」や「アッラー」や「正義」というのは、そのように自分を疑いの呪縛から解放して楽にしてくれるものの象徴にすぎないのだろう。

 信じるものは救われるという。しかし、その信じ方こそが重要だ。

 信じることの真意は、我を忘れることや、妄想に溺れることではないだろう。

 信じることは、現実を直視することの痛みに耐えながら、なんとかしてその困難な状況を克服するために、足掻く勇気を持つことだと私は思う。その勇気の源泉を、「天皇」とか「アッラー」とか「正義」など人間の観念の産物ではなく、自分を今あるように精巧に作り動かしている何ものかの力に見出すべきだろう。その力は、「天皇」とか「アッラー」とか「正義」とか、一言で簡単に言い表されるようなものでないだろう。

 「硫黄島からの手紙」を見る前に、私は子供を連れて「人体の不思議展」を見に行ったのだった。

 会場には、人間の身体の内部器官をそのまま見せる標本がたくさん展示されていた。それらは、献体された人間の遺体を用い、身体を構成している水分と脂肪分をプラスチックなどの合成樹脂に置き換え、顕微鏡レベルでの細胞組織の構成を殆ど保ったまま作りだしたものだ。つまり、プラスチックなどで人工模型を作ったのではなく、本物の人体の精巧な器官をそのまま標本にしたものだ。

 そのなかで私が一番驚いたのは、人間の筋肉とか臓器を取り除き、身体をめぐる血管や神経繊維を標本化しているものだった。自分の身体の隅々まで血管や神経が張り巡らされていて、なるべくしてなるような働きをしているという事実が、感動的だった。

 私たちがいたずらに意志を介入せず、放っておいても、それらはきっちりと、あるべきところにあって、働き続ける。

 「硫黄島からの手紙」のなかで、爆弾によって身体がバラバラに吹っ飛ぶシーンがたくさんあり、それを見るたびに胸がえぐられるような思いになったが、その理由は、爆弾によって精巧に生きている肉体がただの物体に成り下がって、そこらじゅうに散らばることに対するショックだったのではないかと思う。

 サムライ映画などで刀によって切られる死と、爆弾によって肉体がバラバラになる死は、同じ死でも、視覚的なショックがまるで違う。

 自分が生きている拠り所がどこにあるかというと、自分の身体の精巧なメカニズムのなかにこそ、それがあるように私は思う。このようにデリケートでありながら、極めて精巧なメカニズムが敢えて私に与えられているというのは、私を生き続けさせようとする力が私に働いているからだろう。

 自分の意志とは無関係に、自分を生き続けさせようとする力が自分に働いていて、その力が、おそらく死を恐れるように仕向けている。そうした力が自分に働いているという事実こそが、凄いことなのだと思う。自分が生きようとして生きているのではなく、最初からそうした力によって生かされているとすれば、その力を簡単に冒涜できないという気持ちになる。

 剣で切られたりして呻きながら死んでいく場合、それはそれで残酷ではあるが、その呻きじたいに、生き続けさせる力とそれを中断させる力とのせめぎ合いが感じられ、たとえそのまま死ぬことになっても、それまで続けてきた生の営みの延長線上の凝縮した瞬間と結果を見せられている気になる。

 しかし、爆弾によってバラバラになってしまうことは、それとは違う。せめぎ合いも何もなく、あっけなく物体化する。生きることや生き続けることの複雑で精巧な闘いが、あっという間に無化される。死んでいく人に苦しみはない筈なのに、見ている側としては、あまりにも酷いことのように映る。

 物体化して瓦礫のように転がる死。そういう死を戦場で見続ける兵士が、「無駄死にはしたくない」と強く思うようになるのは当然だろう。

 妄想の一番悪い癖は、モノゴトを単純化してしまうことだ。善と悪、生と死をまっぷたつに分けて、どちらか一方を簡単に切り捨て、その間に立って足掻くことをしない。

 だからおそらく爆弾という武器は、妄想の産物だと思う。

 一つの打撃でどれだけ多数の死体をつくり出すかということを想像する喜びに取り憑かれた者が、爆弾を作りだしたのだ。

 しかし、妄想のなかでは大義に従属して一つ一つに個別の意味を与えられなかった「死」が、実際の現場では、一つ一つ生々しい形をとっている。そこには、妄想の入り込む隙はない。本国のどこかにお隠れになっている天皇陛下とはまったく無関係に、物体化してそこらじゅうに転がった死体という歴然たる事実があるのみなのだ。

 妄想を取り払う力は、生と死の現場にある。現場の状況を直視するか、それを見て見ぬふりをするかだ。そして、自分に一番近い生と死の現場は、自分の肉体だ。ここでは今この瞬間も、生と死が息苦しいほどに激しくせめぎ合っている。

 そのことを抜きにした美しい言葉は、妄想にすぎない。だから信じるに値しないと思う。


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