第1010回 昭和という時代の欺瞞と虚飾の延長線上の今

 京都の河原町のLumen galleryで福島菊次郎の写真展と記録映画の上映があります。
 

 
http://www.lumen-gallery.com/
  
 まだご覧になっていない人は、ぜひ一度見ていただきたいです。きっと感じるところがたくさんあるでしょう。
 現在、安倍政権が、民進党の混乱や小池百合子氏を中心とする新勢力の体制が整っていない今だったら勝てるかもしれないという判断で、解散、総選挙を目論んでいます。
 政治というのは、なんと姑息な手段をとるものなのかと、今更ながら呆れます。
 本来、政治家という職業は、人格に優れ志の高い人になって欲しいのに、その逆の人が政治家になり、国のお金で贅沢をする。
 そして、福島菊次郎氏のように、人間味に溢れ、潔癖で、筋を通す人間が、死ぬまで貧乏な暮らしをするはめになる。
 「問題自体が法を犯したものであれば報道カメラマンは法を犯してもかまわない」という言葉が、映画のキャッチコピーになってしまっていますが、私は、この言葉は、彼の仕事にふさわしいものとは思えません。
 福島菊次郎の仕事の本質は、そんなところにない筈です。
 そして、彼が、法を犯した活動をしたわけでもない。
 この映画を見て非常にはっきりとわかることは、彼が、自分を安全なところに置いて望遠レンズでシャッターチャンスやスクープを狙うなんてことは一切行わず、常に問題の本質の真正面に、そして真近に立っているということです。暴漢に襲われても、家を焼かれても、一切怯むことなく。その気迫がすごい。 
 90歳になっても、日常的には足元がフラフラになることがあるのに、被写体の真正面に、真近に立ってカメラを構える時に、その気迫が全く衰えていないことに驚かされます。
 そして、自分が闘ってきた国家からの年金の受け取りを拒否し、子供達の支援も受けず、わずかばかりの原稿料を糧に、一人で、買い物から食事から洗濯まで何もかもやって生きている姿には、本当に感心させられます。福島菊次郎のような生き方はできなくても、せめて、晩年は、この矜持を見習いたいと思います。
 平成の今も昭和に行われた数々の嘘とゴマカシの広がりの只中にあるので、今の段階で昭和を語っても、情報の峻別ができず、いろいろと夾雑物が混ざってしまいます。
 しかし、200年くらい経って日本史を眺めわたし、今の時点で江戸時代の1700年代の50年ほどを振り返るような感覚で昭和を振り返る時、昭和を知るための情報で、どの情報が大切なものになるか。そういう視点で見ると、もしかしたら、福島菊次郎が残した写真だけで十分かもしれないとさえ思います。それほど、この人は、昭和という嘘とゴマカシと虚飾の時代の真正面に真近に立って仕事をしています。敗戦直後のヒロシマに始まり、天皇問題、憲法問題、自衛隊軍需産業三里塚闘争、安保、公害、水俣ウーマンリブ原発。しかも、その一つひとつが、スクープ狙いに現場に行った、という程度のことではなく、長く時間をかけて取り組んでいることに驚かされます。
 後世、昭和天皇の以下の言葉と、福島菊次郎氏の写真によって、昭和という時代がどういうものであったか冷静に分析されることでしょう。
  1975年10月31日、日本記者クラブ主催の公式記者会見の席上、昭和天皇は、広島の原爆被災について質問を受け、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」
 そして、戦争責任については、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」と語りました。
 これは天皇の言葉ですが、昭和という時代全体を流れていた欺瞞を象徴しているように感じるのは私だけではないでしょう。
 問題の核心の真正面に真近には決して立たない卑怯が大人のふるまいとして平然と通用してしまう、むしろその方が賢明で、事を荒立てなくていいのだという卑小な社会風潮の種を、この言葉に感じます。
 1950年に朝鮮戦争が勃発し、敗戦国日本を対共産圏の盾にすべしと判断したアメリカは、戦争責任のある政治家や官僚や表現者やメディアを利用した方が得策と考え、また、それまで鬼畜米英と叫んでいた彼らも手のひらを返すようにアメリカに尻尾をふり、戦前と同じ権益を引き継ぎました。さらに、それら矜持を持たない体制管理者たちにへりくだったり、すり寄ったりした方が、生きていく上でいろいろとメリットがあるという小賢しいシステムを作りあげて、目先のことや自分の利益、立場のことしか考えない多くの国民を抱き込み、体制管理者の権威をより高めることにつなげました。
 その結果、天皇を神にまつりあげて多大なる犠牲を出した昭和の前半よりも虚飾が増して欺瞞の複雑化した昭和の後半とその影響が、今に至るまで続くことになりました。
 平成になってもまだ昭和の欺瞞の中に留まり続けるのか、それとも、昭和にけじめをつけて、現在の政治を捉え直すことができるのか、とても大事な時期にきています。
 福島菊次郎の仕事の本質の真正面に真近に立つことは、その大事な問題を考えるうえで、とても意味のあることだと思います。
 彼は、戦時中、爆弾を持って戦車に体当たりする役目を負い、その行動に入る前に、終戦を迎えました。
 その時、軍服や戦いのための備えをまったく持たされることなく、草鞋を履いた肉体一つで、戦車と自分の命を引き換えにすることを命じられていたわけです。その国家の欺瞞と理不尽さに対して、許せないという思いが骨の髄まで刻み込まれた結果として、彼の戦後の人生があったのではないかと思います。
 戦後に生まれ育った私たちには、戦車と引き換えにさせられる命という経験はないけれど、福島菊次郎が映し出した戦後国家の暴力と理不尽さを目にする時、同じことが何度も繰り返される可能性を感じずにはおれません。
 政治の問題というより、そういう政治を選んでしまう私たち一人ひとりの中の欺瞞の集積の問題だという気がします。