第1011回 リベラルとは何なのか。

 解散総選挙で、日本中が、政治ゲームに染まっている。
 これまで何の実績のない小池党首の希望の党に、つい最近まで政権政党だった民進党が、リベラルな政治家を排除するためだと安全保障と改憲の踏み絵を迫られ、選挙に出馬できるかどうかというキャスティングボードまで握られている。
 言葉の使い方において、付け込まれる隙がないように、慎重に発言する小池氏が、堂々と、「排除」という言葉を使っている。
 つまり、「リベラル派の排除」という言葉をいくら使っても、イメージの低下につながる恐れがないという確信があるのだろう。
 今の日本で、リベラルという言葉は、あまりよくないことらしい。
 そもそもリベラルとはなんなのか。
 小池氏が排除するリベラル派というのは、憲法9条の堅持や安保法反対護憲を主張する政治家、「共謀罪」の趣旨を含む「改正組織的犯罪処罰法」などに反対する政治家ということになる。しかし、小池氏は、とりあえず原発は、この国のリベラル層に少し歩み寄って、廃炉のための工程表を作らなければならないと言っている。
 もはや、保守もリベラルも、その違いがよくわからなくなっていて、保守も、「個人の尊厳」とか「多様性の尊重」という言葉を使うし、本来、自由を意味するはずのリベラル派も、自由競争を批判するし、全体主義的な国家管理による福祉の充実を唱える。
 国の管理による「秩序ある自由」を主張するリベラル派、リベラルを排除するという不寛容さで「寛容な保守」という言葉を使う希望の党。わけがわからない。
 保守が、「多様性」や「個人の尊厳」を大切にすると言う時、それは、「全体の強みに貢献するのであれば、個人のみなさんには頑張っていただき、どんどん多様な活動を展開し、強いものはどこまでも強くなってもかまわない。しかし、全体の安心と安全に必要であれば、多少は個人の犠牲があってもしかたない。全体が、安定的で、発展的であることが大事だ」という意味になる。
 それに対して、「全体のために少数が犠牲になってはならない。弱いものを切り捨ててはいけない」、つまり、”弱い立場の人たちの不自由さをなくすこと”が、リベラル派の信条ということになるだろうか。
 弱いものというのは、貧者や障害者に限らない。どこの組織にも所属しておらず、何で食べているのかよくわからない人、立場が非常に不安定な人、いざとなった時に守ってくれる組織がない人なども含まれる。
 それに対して、たとえフリーで活動していても、権威的な団体の賞などを数多く受賞し、立ち回りも上手で行政からの仕事を多く受けている人、またはそれらを目標にしている人は、考え方や生き方としては保守だろう。
 つまり、社会の価値観の安定と発展に少しでも寄与することが現実的保守であり、その存在自体が不安定で、だから社会に不安定な要素を持ち込む可能性がある人が、”リベラル派”として白い目で見られ、実際に、そういう人が生きにくい構造が作られている。
 今回の選挙でも、希望の党に踏み絵をされるくらいなら無所属で立つと言うだけで、悲壮感が漂うし、実際に、資金や支援団体や大組織同士の調整などによって個人で闘うためには不利なことがいっぱいある。政治は社会の縮図なのだ。
 保守は利益のために戦争をやりかねない人たちで、リベラルは平和主義であるかのような主張を展開するリベラル派の人たちがいるが、こういう単純化された論法が、リベラル派の地盤沈下の原因にもなっている。
 なぜなら、保守の人たちにとって、それは、切り返しのしやすい論法だからだ。「リベラルな人たちは、平和と安定のために具体的に何をすべきかわからず、集まって理想的な空論を叫ぶだけだ。そういう姿勢が、むしろこの国の秩序を不安定にして、平和が脅かされる原因となる」と。 
 多くの国民は、理想よりも現実に生きており、現実の中での安定と、ささやかな幸福を指向している。だから、保守の人の言葉の方が、彼らにとって納得感がある。
 リベラルが、冷静な理論で闘うのではなく、感情だけの単純な言動ばかりが多くなり、結果的に、ヒステリックな主義主張団体のようにしか見えなくなってしまっていること。そのうえ保守が、御用学者で脇を固めた情報操作で、自らの頭で考えようとしない依存的な大勢を丸め込んで、リベラルを、ただの感情的集団として切り捨てている。そうした流れが、小池氏に、「リベラル派の排除」という言葉を安易に使わせるムードを育んできた。
 「リベラル派の人たちとは組めない」という言い方ですむのに、なぜ敢えて、差別的な「排除」という言葉を使うのか。クリーンにすること、純粋化すること、つまり、ナチスの思想に似た適者生存の考え方が、背後にあるのではないか。
 適者生存の考え方が、ポピュリズムによって広まった結果としての、ナチの恐ろしい犯罪があり暴力があった。
 そもそも、リベラル派の人たち自身が、リベラルの力を、保守の力と同じように、団結とか、組織性とか、単一な主義主張によって発揮しようとしていたことが、間違っていた。
 ナチもまた、民衆を重視するといい、物質主義や世界主義を否定した。庶民に身近な文化で、民衆の「心」を掴むことも怠らなかった。そして、それらの価値観を実現するために、忠誠心と奮闘と団結の思想が持ち込まれたことが、最悪の事態を引き起こすこととなった。

 リベラルは、そもそも後ろ盾がないという不安定さや弱さが前提で、その覚悟と矜持のなか、孤独で踏ん張る力を持つことが不可欠だった。まれに、その弱さが共感の力で強みになる可能性があるが、強みになった瞬間、妬みによって簡単に引きずり下ろされる可能性も高く、いずれにしろ、リベラルは不安定であり、不安定の中に生きる覚悟がなければ貫けない。その覚悟と矜持こそが、リベラルの証なのだ。
 この覚悟や矜持は、誰にでも持てるものでもないし、世の中を変える力になるとも限らない。
 しかし、この覚悟や矜持が大きく減退してしまった世の中は、少しでも不安定化すると、その不安に耐えきれず、たちまち全体主義に覆われる危険な状態ということになる。

 今こそ冷静に、戦前の日本の状況をしっかりと見つめなおす時かもしれない。
 太平洋戦争前、近衛文麿は、軍部に媚びて、新体制運動を始めたり、大政翼賛会を作ったのではなかった。
 むしろその逆で、国民全体に及ぶ巨大な組織を成立させ、その政治力を背景に、軍部の独走を抑えたいと考えていた。そして、その根幹にある考えは、「未曾有の国難に対処するため、強力な政治体制を確立する必要がある」というものだった。この考えを、当時の庶民は、現状の厳しい暮らしと閉塞感が打破されるかもと期待し、喜んで受け入れた。政争にあけくれて国民の信頼を失っていた政治家達も、軍部から政治的主導権を取り戻すチャンスになると飛びついた。官僚も、巨大な国民組織を構築し、全体主義的な経済体制を作らなければ、健全な経済を保てないと感じていた。しかし軍部もまた、ナチスのような巨大政党によって、戦争に邁進できると考えた。そのように近衛文麿の新体制運動はすべての人に受け入れられ、既存政党は自ら率先して解党し、近衛文麿を神輿にかついで、その体制のもとへ合流していった。
 しかし、当然ながら、その合流のあとで、互いに主導権を握ろうと権力争いが激しくなった。その中で作られた大政翼賛会は、大組織であるものの、近衛文麿の意図するものとは違うものになっていた。そのゴタゴタのうちに、この大政翼賛会は、軍部に主導権を握られ、利用される組織になってしまった。近衛文麿の後に首相になった東条英機は、行政官庁の管理下にあった各組織を、この大政翼賛会の傘下におき、大政翼賛会が、その指導監督権、人事予算権を持つにいたった。さらに町内会や隣組なども、その傘下に置いた。こうして、政権政府が大政翼賛会に命令を出すだけで、速やかに国民全体が従わざるを得ない体制が作られた。一度、その体制ができてしまえば、誰がその命令者になるかだけの問題となり、結果的に、軍部がその命令者になった。
 先の戦争の悲劇は、戦争好きの極悪人が仕組んで、国民が騙されて踊らされて巻き込まれた結果ではなく、政治的決定を効率よく遂行しやすい体制が作られた後に、その体制が軍部に乗っ取られてしまい、一度動き出すと、止まりにくい構造だったゆえのことだ。
 その体制を作ったのも、軍部がその体制を乗っ取ったのも、理由は同じで、現在の政治家も国民を説得するために口にすることが多い、”未曾有の国難に対処するため”が大義名分だった。だから誰もがその決定に従わざるを得ない空気になった。
 小池新政党は、閉塞感の漂う日本の現状に変化を与える風のように感じる人が多い。しかし冷静に見ると、過半数をとって強引に物事を推し進めようとする安倍政権の後に、国難に対処するためという大義名分で、今よりも簡単に3分の2以上の議員が集結しやすい状況になる変化だとも見える。つまり、より全体主義に近い道を、日本は歩み初めているのかもしれない。

 「国難に対処するため」という言葉は、不安なく生きたい人を丸め込む切り札だ。誰でも不安なく生きたいと思うのは自然なことだが、悲しいことに、その思いが組織的なものになって、危機を乗り越えるために手段を選んでいられないという状況に陥った時、犯罪的なことが起きる。
 リベラル派の人たちが、平和と安定を声高に叫ぶという手法をとるかぎり、その同じ土俵で、保守には勝てない。保守は、「我々は同じことを目指し、その手段を具体的に講じているが、リベラル派は、理想を口にするだけだ」と切り返す。
 理想主義者よりも現実主義者の方が圧倒的に多い社会では、その切り返しだけで十分だ。
 不安定に揺らぎ続けても、長い時間をかけて、少しずつうまくいく方法を見つけていくことが大事ということを、どのように説得力のある方法で伝えていくことができるか。
 政治に限らず、経済や表現においても、その価値や魅力がステレオタイプに、短いキャッチフレーズで説明されてしまうものではなく、何だかよくわからないということ自体が魅力的であり価値あることだと、どのように伝えていくか。
 わけのわからなさに対する寛容さや敬意が根付かないかぎり、リベラルな社会とは、とうてい言えない。
 不安の波が高まることでパニックに陥り、たちまち全体主義的な傾向を帯びてしまう危険性を回避するためには、本当の意味で「リベラル」が試されている。