第927回 ミャンマーは、これからどうなっていくのか。

 この時期にこういうことを述べるのはとても気が引けるのだけれど、それでもやはり、イラクやシリアの前例があるので、自分の考えを述べておきたい。
 ミャンマー政権交代アウン・サン・スー・チー氏は、現在の法律で大統領になれなくても自分の仲間を大統領にして、自分が全てを決めると言っている。
 この発言は、既に一部の人には批判されているが、民主化運動の勝利に湧く報道のなか、”(極悪とされる)軍事政権による政治を終了させるのだからそれでいい、という空気のなかに掻き消されている。
 アウン・サン・スー・チー氏は、ミャンマー民主化運動の象徴で、ノーベル平和賞という、紛争の原因を作った西欧世界の良心の呵責を解消するために、政治的な判断で特定の人物をヒーロー化することの多い賞を受賞してはいるが、ミャンマーの複雑な事情を完全に理解して正しく導けるとは限らない。国民が選んだ政権は独裁にはならないと彼女は言うが、熱狂的に国民に選ばれたゆえに暴走してしまった政権は、ヒトラーを例にあげるのは極端だが、過去にも例はある。
 問題は、現場の複雑さを十分に理解せずに頭でっかちの理想を追うと、結果を性急に求めすぎてしまい、過激に強引になってしまう可能性があることだ。
 劇的な変化は人々の心を掴むが、目に見えにくいところに歪みを作り出してしまう。
 ミャンマーの極悪とされる軍事政権は、その点、かなり粘り強く時間をかけて国内を調整してきたのではないかと思う。
 シリアもそうだったが、ミャンマーも、極悪とされる政権時に国内を訪れた者なら知っていると思うが、マスコミが論じているほど悲惨な状況ではなく、時間はゆったりと流れ、治安は良く、人々は決して物質的には豊かでなくても表情は穏やかで、親切で、街は健やかな空気に包まれていた。
 その空気は、信仰によって育まれていた。その信仰は、原理主義のように正しさを人に押しつける類のものではなく、一人ひとりが魂の中に抱いているものだった。一人ひとりが、良き生まれ変わりを信じていたり、良き死後の世界を思い抱くことで、現世を敬虔に慎ましく生きることが当たり前のように行われていた。
 そういう健やかさは、旅人の目に映る表面的なものだと主張する”正義”の人がいるかもしれないが、たとえそうであっても、現在のシリアとは比べものにならないくらい、美しく、平和な国だった。
 ミャンマーもシリアのようになると主張したいのではない。しかし、ミャンマーという国は、少数民族が多く、宗教も、仏教だけでなく、キリスト教イスラム教が入り交じり複雑になっている。性急な改革は、必ず反発と混乱を生む。
 ミャンマーの極悪とされてきた軍事政権を、(アサド政権のシリアもそうだが)太平洋戦争の時の日本や、ヒットラーのドイツや、ポルポトカンボジアや、アミンのウガンダと一緒にしてはならないだろう。
 ゆっくりと時間をかけて、複雑でいびつになってしまった糸を解きほぐしていかなければならない時期に、ある程度の強権による治安維持が必要だったということもある。
 ミャンマーの軍事政権が、ポルポトや戦時中の日本政府のようであったならば、アウン・サン・スーチー氏を、インヤー湖畔の高級住宅地の数十億円とも言われる超広大な自宅への軟禁ではなく、拷問付きの牢獄か処刑にしていただろう。国際的な批判をかわすためや、国内の治安維持を重視して、彼女を自宅軟禁にしたと説明することも可能だが、そうだったとしても、それだけ冷静に、時間をかけて何かを整えていこうとする思想を反映した措置だということになる。
 1989年当時、宗教と民族の対立が複雑化していたミャンマーで、”民主主義”を強引に実現しようとしたら、イラク戦争後のイラクのようになっていた可能性だってある。
 そして、最も大事なことは、イラクやシリアでもそうだが、一体誰が、ミャンマーの国内事情を複雑にしてしまったのかということだ。
 イギリスやフランスは、他の地域でもそうだが、植民地支配のために、国内に対立構造を作り出した。
 そのほとんどのケースにおいて、少数派に十分な武器を与えて国内を治めさせた。少数派は、イギリスやフランスの後ろ盾がなくなると立場が弱くなるので彼らに忠誠を誓う。フツ族ツチ族の対立による凄惨な虐殺が行われたルワンダも、シリアも、ミャンマーも同じだ。
 シリアにおいてもアサド大統領は、イスラム世界の中の少数派で、長年虐げられてきたアラウィー派出身であり、フランスとの関係によって、アラウィー派は国内で力を強め、政権を獲得した。
 ミャンマーにおいて、イギリスは、少数の山岳民族であるカレン族などをキリスト教徒に改宗させて軍隊と警察権力を与え、インドからのイスラム教徒や中国の華僑などを移して金融や商業を活性化させ、民族・宗教間の憎悪をうまく利用して分割統治を行った。
 そして、シリアもミャンマーも、長らく続いた(極悪とされる)軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかった。もしもシリアでアサド政権の時代が終わると、アラウィー派にどういう悲劇が訪れるか、それを考えると、アサド政権は、簡単には引き下がらない。
 ミャンマーにおいても、果たして民主主義という正義の御旗のもと、複雑な民族・宗教がまとまることができるのか不安は大きい。当然ながら、欧米は、アウン・サン・スー・チーを支援するだろう。しかし、その支援は、人道的という名目であっても、実際は、経済的なものだ。
 ミャンマーの国内をズタズタに引き裂いた張本人はイギリスだが、オックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学び、名誉博士になっているアウン・サン・スー・チーの政治思想は、当然、イギリスの影響を受けているだろう。その政権と、イギリスがどのように関わって、どのように利用していくのか、決して見逃してはならないと思う。
 イギリスは、最近、中国製の原子炉を導入することを決定するなど、ミャンマーとの国境付近で軍事的なトラブルが続出している中国との接近が異様なほど目立っているが、そうした経済の力学が正義にカムフラージュされて、性急すぎる乱暴な改革が行われたりすると、あの健やかなシリアを訪れることができなくなったように、ミャンマーもそうならないとは限らない。
 ミャンマーと中国の国境付近でのトラブルは、この山岳地帯に住む少数民族ミャンマー軍との戦闘が原因で、少数民族は、人口の70%を占める仏教徒ビルマ人の支配を嫌い、分離独立を掲げている。かつてこの少数民族に権力を与えてミャンマーを支配する手先に使っていたのがイギリスで、イギリスからミャンマーが独立した後はビルマ人との間で立場が逆になり、互いの憎悪がつのっている。
 ミャンマーはスズ、天然ガス、ヒスイといった天然資源が豊富だが、ミャンマー鎖国状態だった時、中国だけがほぼ独占的に取引を行い、ミャンマーへの強い影響力を持ち続けてきた。しかし、民主化後は、様々な国が駆け引きを行う舞台になっている。
 豊富な資源をめぐる争いと、独立を求める少数民族の抵抗。そして暗躍する大国。ミャンマーも、シリアやイラクと非常に似た状況にある。
 笑顔による施しを積み重ねることで良き生まれ変わりがあると信じるミャンマー人の柔和な顔が消えることがないように、時間をかけて、丁寧に、できるだけ欧米の力学を持ち込まずに、改革を続けてほしい・。
 劇的で熱狂的で革命的な変化は、必ずその反動がくることは、歴史が証明している。


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