国防をめぐる議論の欺瞞

 終戦記念日の昨日の夜、NHKで国防をめぐる討論会があった。保守とリベラルが半々といういつものお決まりのパターンで。
 その合間に、市民の討論会の映像もはさむ。同じく、軍備増強支持と反対を半々で見せる構成だ。そして最後に、「今までこういう議論がなかった。だから、もっとこういう議論を行なわなければならない」とまとめる。
 賛成と反対、両方の意見を紹介するのが民主主義的であるという考えに基づいているのかもしれないが、そこには欺瞞がある。
 なぜ欺瞞かというと、議論の前提として、中国と北朝鮮の脅威があると決めて、そこから始めているからだ。そういう前提だから、軍備増強するかしないかは、国を守る為の技術論の問題だというふうに議論は展開し、軍備よりも外交を重視すべきだ、いや外交だけでは効力がない、抑止力が必要だという議論になる。
 あげくに、リベラルの立場だとする評論家が、保守の人は、今ある危機に対して具体的に物事を考えているが、リベラルの側は、”平和”など抽象的な主張に終始していて具体性がない、反省しなければならないと言っている。
 さらに、その議論の途中、軍事増強に賛成の国民が、この数年で、10数%から20数%に増えていると解説者が伝え、8月11日に行なわれた尖閣諸島近くにある与那国島の選挙のことでも、自衛隊誘致によって島を守るという考えの人と、自衛隊があることで狙われやすい現実を作り出すから反対であるという人の声を伝え、結果として、自衛隊誘致派が勝ったことだけを伝えた。しかし、その票差が、たった47票ということ(投票率95.48%)や、前回の得票差は103で、その差が縮まっているという事実は伝えていない。
 NHKは意識しているかどうか知らないが、こうした番組作りじたいが、既に誘導になっているのだ。
 太平洋戦争の時も、悪人の力で強引に戦争が始まったわけではない。
 自分の一つひとつの思考や行動が、どのように戦争につながっていき、さらに戦争から脱け出せなくなるか、無自覚の圧倒的多数の人々が作り出す流れによって、あそこまで悲惨な戦争になってしまったのだ。
 メディアなどに登場する評論家や学者などは、「現実に合わせて策を講じなければならない」と、いかにもそれが正しいことであるという顔で主張する。その論法に多くの人は、巻き込まれてしまう。なぜなら、学校などの教育において、そう教えられ、そういうものだと刷り込まれてきたからだ。
 「現実に合わせて策を講じなければならない」という考え方は、部分的には正しい。しかし、「現実に合わせて策を講じる動き」が、新たな自分の現実を作り出してしまうという本質の方が、より重要だ。そして、さらにその現実に合わせて策を講じることを続けていくと、どんどんと泥沼に陥っていく。太平洋戦争前の時のように、現実に合わせて法律を少しずつ変えて、その法律が人々を縛っていくという現実が出現する。
 一人ひとりの人生においても、そういうことはいくらでもある。自分自身と深く向き合って、自分はどうしたいのか、どうすべきなのか考えるのではなく、現実がこうだから仕方が無い、それに合わせて行動する、たとえば他のみんなが就職しているから就職する、もしくは大学に行く。そういうことを繰り返すと、そうした自分の動きじたいが自分の人生の現実を、どんどん狭めていく。自分では矛盾だらけだと思っていても、それが現実だ、仕方がないと、自分をごまかしながら生きていくことになる。あとは、どううまく立ち回るかという技術論の問題ということになる。
 そういう状況に陥ってしまうと、人は、「本質的なことが大事なのは誰でもわかっている、しかしそれは理想論である」と言う。今、自国を守るために憲法を改正して軍備増強をすることに賛成する人の意見も同じようなものだ。本質を犠牲にして、自分をごまかして現実に合わせるような人は、どう立ち回るか技術的な問題が大事だと考えているわけだから、自らが前線に立って闘うことなど夢にも思っていない。他人をうまくごまかして、自分は安全なところにいて人に命令だけできるポジションを獲得することに知恵を絞るだけだろう。
 「本質が大事なのはわかっている」と口で言いながら、実際の行動が違う人は、本質が大事だということを、本質的にわかっていないのだ。
 現実というのは、自分の存在とは関係なく既にそこにあるものではなく、自分の思考や行動の結果として現れるものだ。
 流行の店があるという情報が伝えられても、自分の思考や行動がその店と結びついていなければ、その流行の店は、自分の現実ではない。
 流行に遅れないようにその店に行かなければならないと考えたり、実際に行くということを通して、その流行の店は自分の現実になるし、同じように考え行動する大勢の人が共有する現実になる。
 中国が危機だという情報が伝えられ、それに対して手を打たなければならないと考え、実際に何かすると中国の危機は自分にとって現実になるし、自分が行なう策によって、その現実は、さらにリアルなものになっていく。
 という言い方をすると、中国の危機を現実的なものと考えられないのは傍観者だと言う人が出てくる。その考えが発展すると、非国民だということになる。
 そのように、中国の危機が、どんどん決定論的なものになっていく。そして、その決定論を強化する情報が集められ、伝えられる。
 もちろん、中国の中にも日本の危機を現実だとみなし、その現実の虜になっている人も存在するだろうが、全員がそうなのではない。日本も中国も、一人ひとりは、それぞれの人生の現実の中で、それぞれの具体的な危機と向き合って生きている。それぞれの具体的な危機とは、数日間、食べ物が手に入らないと人間は死んでしまうわけだから、糧を得る為に働かなければならないということ。これは、リアルな危機であり、どんな生物も、その危機を回避するために必死に生きている。
 だから、尖閣諸島の近辺で漁をする人達にとっては、現在の中国と日本の関係は、まさに危機的なものだ。と言える。
 しかし、そのことを利用して、中国の存在が危機であるかのように煽る人もいるが、そうではなく、今の日本と中国の関係が漁師達にとって危機なのであり、これ以上、対立がつのれば、さらに漁を行なうことは難しくなる現実が待ち受けているだろう。
 メディアが伝える情報は、フェアを装いながら、上に述べた与那国島の選挙のように、巧みに歪められて偏っている。
 現実に合わせて自らの思考や行動を決定していくと、このように歪められたり偏ったりしている情報によって自分の人生を形作ってしまうのだという本質を、きちんと理解していた方がいいと思う。

 中国や北朝鮮の脅威に対する具体的な策はどうするのだ、憲法改正や軍備増強以外に策はあるのかと迫る論法。この論法を好んで使う人間は、自分が認識している現状を確定事項として捉え、自分の思考と行動を、それに合わせることを具体的な対応だと信じている。目的に合わせて機械を設定するように。
 しかし、自分が認識している現状は、自分が得ている情報の偏りによって歪められている可能性が大きいし、教育やメディアの影響を受けている自分の思考の癖が、現実を歪めていることもある。さらに自分の思考や行動によって、その現実が大きく変化する可能性がある。そうすると、またその新たに出現した現状に合わせようと思考し、行動するが、その動きがまた現状を変化させる。現状に合わせようとする自分の思考と行動が、現状をどんどん悪い方向へと導くことが実に多い。
 現状に対する具体的で賢明な対応と言いながら、その対応が、現状を大きく歪めてしまう堂々巡りに陥るのだから、結果として、まったく賢明でなかったということになる。それが、太平洋戦争の日本の惨めな敗戦ではなかったのか。
 現実は、自分の思考と行動によって変化する。だからこそ、より良い変化の方向性をみすえて、思考し、行動することが必要だろう。日本が憲法改正をして軍備増強することによって変化する現実は、より良い方向だとは思えない。中国も競うように軍備増強し、敵対感情をつのらせ、対立がエスカレートしていくことは目に見えている。
 自分が認識している現状に対して、決定論的に、機械論的に策を講じようとするのではなく、どんな状況であれ、自分の思考と行動の積み重ねが、自分の現実を作る。自分ができることは、そのようにしてコツコツと作られていく自分の現実の積み重ねに対して、責任を持つことだけなのだ。
 国を守ることが責任だなどと言い始めた人は、自分が実感している自分の現実の積み重ねじたいに、空虚感を覚えていることがある。国家存続に対する不安ではなく、自分の人生に対する不安なのだ。現実に自分を合わせることを繰り返した結果、自分の人生を生きているように感じられない、とりとめのない不安。そういう時、家族や国家を守るという強い使命感のようなものが、心の充実をもたらし、強く惹き付けられてしまうことがある。気をつけなければいけない。