実状と言葉の乖離・断絶

 チベットに添乗に行く社員が、出発前にツアー客に電話をしている。

「中国は、国家体制が社会主義なため接客などのサービスが行き届いていないことが多く、現地で何かとご不便かけることがありますが、予めご了承ください・・・」

 現地の事情を知らないツアー客に、添乗員が事前にネガティブ情報を伝えているのだが、その会話を耳にして唖然とした。私も海外添乗に行っていた10年以上前のトークと全く変わらない内容だからだ。しかし実際には、この10年で中国の状況は大きく変わっている。

 その社員に事情を聞くと、そのように話すように先輩から伝えられたと言う。つまり、10年以上もの間、同じトークがパターン化して延々とコピーされている。

 昔の中国人は、サービスの良し悪しで収入に差が出ることがなかったけれど、今は違う。だから、サービス競争も盛んだ。もはや、「社会主義体制だから・・」という言い方は通用しない。そのような中国の経済事情は、旅行会社の人間でなくても知っていることだ。

 現地に精通しているプロならば、「中国経済の発展は著しく、消費者向けのサービスは資本主義と変わらない情勢になってきていますが、上海などの沿岸部とチベットなどの辺境との格差は依然して大きく・・・、」というように、時代の状況変化に応じたアレンジが必要だろう。

 中国の変化は肌身を通して感じているし、わかっている。でも、発せられる言葉は、10年以上前のもの。「実際の状況を知っているのに、それとかけ離れた言葉を発するのは何故だ?」と問うても、「そのようにツアー客に話すものと思っていた」とか、「先輩(上司)から、言われた」と答える。

 会社にいると、これに似たケースは他にもたくさんあって、矛盾したことを行っていて、それを叱ると、「そういうものだと思っていた」とか、「上司にそう教えられた」と答える人は多い。上司(先輩)が、本当にそのように教えたかどうかわからない。”例えば”というケーススタディを口にして、それを応用することを後輩に期待しただけかもしれない。そうではなく、思考停止の上司のそのまた上司から、伝言ゲームのように右から左へと流すことが重なって、その間、そうした矛盾に誰も気付かず、指摘されることもなく、今日に至ることもあるだろう。

 そうしたコミュニケーションを行う者は誰も悪意など持っていない。自分が間違いを犯したとも思っていない。教えられた通りにやっているだけだ、そういうものだと思っていたのだ、しょうがないじゃないか、という感じで。

 会社のなかの、ほんの小さな局面で、こうしたことは数多くあるが、何らかのきっかけで大きく間違った方向に走り出すと、今日伝えられる様々な企業の不祥事のようになっていくのだろう。「このように大きな問題になるとは思っていなかった」と言い訳して。

 これは会社だけの例外的なケースではない。官僚や政治家の不祥事、それ以外の社会的大問題となるようなことも、実はこのように小さなことの積み重ねの延長にあるのだろうと思う。おそらく、戦争にしても、戦争をやりたくてしかたがない人間が集まって始まるのではなく、「そういうものだと思っていた」「上司からそのように教えられた」、だから「しょうがなかった」という思考と行動パターンが莫大に集まった結果として、生じるものではないだろうか。

 そして、日本の教育現場とか、アカデミックや産業構造のなかでは、「そういうものだと思っていた」とか「(権威ある)人が言っているから、そうした」とか、「だから、しょうがない」というメンタリティを強化する方向にあり、そうした無言の圧力に素直に従属する方が、ストレスも少ないし、何かとメリットも多い。異論を持ち出すと、周りに煙たがられるかもしれないし、差別の対象になる可能性だってある。

 自分にのしかかってくる責任をできるだけ少なくし、その場その場を無難に切り抜けていくこと。そのためには、自分の考えや感覚に即して物事を言わない方がいい。個人の意志としてそう決めているわけではないだろうが、無自覚のまま「そういうもの」という風潮にどっぷりと浸っているうちに、「そういうもの」という癖が身についてしまっている。

 パターン化された思考や言葉は、時の経過とともに、どんどんと実状にそぐわなくなる。現代社会において、実状(世界)と自分(個人)との間が引き裂かれているという言い方がよくされるが、そうなる原因は、実状と、自分の中のパターン化された思考が、乖離・断絶しているためだろう。

 世界がどんなに混沌として複雑であっても、自分の中の思考(言葉)を、実状に呼応させながら常に更新していくことを自分に課さないかぎり、実状と自分との間の引き裂かれは解消されないだろうと思う。


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