「雇用は労働需要と供給によって決まる」のか?

 現在の経済危機の状況のなかで、企業は自らを守るために派遣労働を切る。正社員のリストラを加速させる。新規採用は控えている。
 労働需要がないから雇用はいらない。それは当然のことだという主張がある。需要がないところに商品を供給しても仕方がないという考えと表裏一体であり、市場原理に任せるしかなく、”事実”としてそうなっていると論評する学者がいる。
 それに対して、労働は商品でないから需要と供給の関係に任されてはならないという意見も当然あり、金融市場において、政府の規制を減らして市場原理に任せた結果がどうなったかを見れば、”事実”としてよくわかるだろうという論法が繰り出される。
 こうした論争から導き出される答は、どちらであっても、実情に即したものにならないと私は思っている。
 いずれも、結果を分析して「事実」を主張しているのだが、そのように一般化された「事実」は、個々の経営現場の全てに当てはまることではないからだ。
 そうした「一般的事実」に合わない事実は、たくさんある。それがマイノリティということで切り捨てられ、一般的事実が決定される。民主主義的な思考の癖は、そのようにして固められた一般的事実に基づいて制度化を行い、マイノリティのなかに現状を克服する方法論や智慧が隠されていたとしても、無視される傾向が強い。
 現在の経済危機は、マジョリティが抱える構造的問題であるにもかかわらず、マジョリティを基準に分析して解答を導き、その解答を指針にしたりするから、悪循環が繰り返されるのだ。
 マジョリティにおける事実として、「労働需要がないから、雇用はいらない」という一方向に傾いている企業が多いことは確かだ。
 しかし、そうした企業は、今だからそういうスタンスを取っているわけではなく、それ以前から、その時ごとの経済状況(需要)に合わせて採用数を増やしたり減らしたりしている。バブル時期には能力に関係なく大量採用して、経済状況が悪くなるとリストラをする。少しでも賢明さがあれば、ずっと同じ経済状況が続くことはないとわかる筈なのに、目先の判断で行動する。短期の視点しか持てないという事実において、経営者として有能ではなく、そのツケが必ず後でやってくる。
 そうした企業が全てであるならば、「雇用は労働需要と供給によって決まる」と断言できる。しかし、一般的な事実であっても、全てがそういうわけではない。
 人は欲しいけれど、これはと思える人材に出会えなければ採用は行わない。人は足りているけれど、これはと思える人材に出会えたら採用する。「これはと思える人材」等という経済学者が用いる数式や論理では示せない”予感”で、人を採用したり、抜擢する現場もある。

 今ある需要のために数合わせで人を採用するのではなく、新たな人材が新たな需要を創造することを期待して人を採用するから、企業は成長したり、脱皮を繰り返すことができるのだ。
 また、学問では見えてこない実際の経営現場は、常に予測不可能な出来事が連続する。何が役に立つか、その時にならないとわからないということがよくある。事務処理はまったくダメで無能だと思われている人間が、クレーム処理において抜群の力を発揮して危機から救うということもあるし、社内にいる時はパッとしないのに、海外添乗に行くと多くのファンを獲得する人もいる。
 また私の知っている製造会社は、産業用冷凍の分野で世界的なシェアをもっているが、かつてフロンが冷媒として流行った時、競合他社は完全にフロンにシフトしてしまって従来の技術を途絶えさせてしまったのに対して、アンモニア等の自然冷媒を用いる古いシステムをたまたま維持し続けていて、フロンが環境に悪いと判明した瞬間、競合他社がかってに自滅していって生き残ったという歴史がある。
 つまり、目先のことに焦点を置きすぎて、その時点で判明している「需要」だけに合わせた体制をつくってしまうと、その方向で努力すればするほど効率は高まるものの同質化が著しくなり、環境変化に対して脆弱な体質になる。環境変化という危機を乗り越える力は、同質のものの結束力ではない。同質のものが何度会議を重ねても堂々巡りになる。局面を変えるのは異質な発想とかスタンスであり、そういうものが企業の懐のなかに育まれていることが企業の潜在力であり、本当の意味での経営力なのだと思う。 
 とはいえ、「異質」であれば何でもいいというわけではなく、だからこそ「これはと思える人材」を見極める直感力が必要になる。優秀な経営者は、学歴や資格など外面を飾るもので人を判断することの愚かさを知っており、「これはと思える面白い人材」を見抜く力がある。その面白い人材が、袋小路にはいった会社の危機を救ってきたケースは数多くある。
 同質の者が集まった形式的な会議から思わぬアイデアや発明が生まれることは、ほとんどない。時折、突然変異のように生まれる一人のアイデアが、無数の需要を生み出す。その需要は、あらかじめ計算された需要ではなく、可能性に賭ける意思と、切実な願望のまじった混沌の中から、思わぬ具合に立ち上がるものなのだ。そうしたことは、経済学者にとって理性的でないかもしれないが、理性的で計算高い経済学者及び、机上のお勉強でその影響を受けている「肩書きだけの経営者」には実現できない力であり、今日のような経済環境のなかでも混乱に陥らず、リストラもしない企業にとっては、それが、あたり前の企業文化となっている。
 好不況に関係なく、「これはと思える人材」を採用していく。そして、「これはと思える人材」を大切にしていく。「これはと思える人材」は、この時点で力を発揮する者もいれば、今は役に立たなくても、必ず、いざという時に力を発揮することが期待されている。
 また、ある企業は、定年退職がなく、70代、80代の技術者もいるのだが、お年寄りが非常にリスペクトされている。いざという時に、長年の経験者の何気ない言葉が、とても重要なヒントになることがあるらしい。さらに年齢を重ねた社員が社内でリスペクトされているという事実を知ることは、若い社員にとっても、自らの将来をそれに重ね合わせることができるわけで、会社に対するコミットや、仕事に対するモチベーションも高まる。企業と社員のあいだのそうした信頼関係は経済学者の論理にあてはまりにくいだろうが、実際の企業活動にとって、とても大きな力になる。長期的に強い企業生命体というのは、そういうことを心得ている。
 経済学者は、誰にでも当てはまる一般論でモノゴトを考えようとするから、彼らのボキャブラリーには、「これはと思える人材」などという言葉はないだろう。「これはと思える人材」の重要さは、実際に経営をしてみないとわからないのだ。
  企業は、機械運動ではなく生命活動だ。歯車で構成されているのではなく、身体に喩えると、いろいろな器官や、細胞や、ミネラル成分によって複雑精妙に構成されている。
 ほんの微量しかなく何の役割を果たしているかわかりにくいものは、人間の理性判断では無くてもいいように思われがちだが、全体のバランスのなかで重要な役割を占めている場合がある。ホルモンの一種のように、その僅かな分泌だけで身体全体のムードが変わるという存在の仕方もあり、人間組織だって同じなのだ。 
 それではいったい、長期的な視点を持つ企業にとって、「これはと思える人材」と、「そうではない人材」の見極めのポイントはどこにあるのだろう。
 一般論にはならないけれど、私個人の”意見”としては、「前例にならうだけ」、「人から言われたことしかやらない」、「”そういうものだと思っていた”と、頭のなかで決めつけている」、「実感のないことを知識だけで喋る」、「安易に権威を頼ったり、権威を引き合いに出す」、「最初から無理だと決めつけているところがある」、「この瞬間に得られるものが好条件かどうかを気にしすぎる」、「人やモノゴトに対する敬意がない」、「自己防衛意識が過剰」、「一般論しか言わない。つまり自分の”意見”を言わない」、「自分に都合の良い事実で自分の周辺を固める」といったことが顕著な人は、いざという時の柔軟な危機回避力や、新たな局面を自立的に切り開いたり、その人ならではの異なる空気を吹き込む可能性が弱くなるように感じられる。短期的に運良く成果をあげることができても、長期的には、むしろ弊害になることが多くなるように感じられる。
 ここに書き連ねたポイントは、この時代のマスコミや学者や教育の影響を受けて誰しもが持っている側面であり、簡単に脱ぎ捨てることができないものだが、その縛りから自由になろうとする意思が、これからの時代において、「これはと思う人材」につながるポイントだと思う。
 客観的分析を通した一般論を重視する唯物論的な批評態度は、価値観が均等で変動の少ない時に聖域化された。今も相変わらず、その思考特性の蛸壺のなかで堂々巡りをしながら、そこに自らのアイデンティティを確保しようとする年長者が多いことが、今日の混沌状態における視界を、いっそう悪くしている。
 教育分野やメディアや学者など、唯物論的な「一般論」や「客観的分析」を聖域とする人たちが頑張れば頑張るほど、そこから脱出しようとする人たちを阻害する圧力となってしまう皮肉な構造が現在も引き続き残っているが、高度経済成長期の価値世界とは別の領域で生きていかなければならない若い世代は、データ処理された一般論の思考特性の落とし穴から、できるだけ早く脱出しなければならない。
 一人の人生は、客観的に分析すると大切なものが殺ぎ落とされ、決して一般論で括ることはできない。その当たり前のところからモノゴトを始める意欲をどれだけ持てるかで、一人の人間の未来 の展望は変わってくるし、その連鎖が生じさえすれば、社会の展望も変わってくる。 

 広く現状を分析して悲観したり、”得意顔”で説明することは、一般論として語られる現状を再生産するだけのことであって、前に進む力にはならない。たとえ細い道であっても、展望につながる思考と行動が、よほど重要だと思う。