私が子供の頃もそうだが、日本の歴史教育は、本当につまらないものになっている。「鳴くよウグイス平安京」と、何年に何が起こったかと、権力者や優れた業績を残した人の名を覚えることが重要視され、教科書に載っていることを正確に覚えて書けるかどうかをテストで試されるだけで、なぜそうなったのか?など、その背景のことについてじっくり想像したり、議論する学習はなかった。
歴史の成績は、権威機関によってこれが正しいと決められたことを正確に覚えることが重要で、想像力を膨らませてしまうと、間違った解答とされてしまう。
しかし、これからの行為においては、正しいか間違っているかの判断は重要だが、過去に起きたことについて、正しいか間違っているかを決めることに、どれだけの価値があるのだろう。なぜ、過去のことなのに、権威機関が正しいと決めたことに従わなければいけないのだろう。
歴史を学ぶことの意義は、温故知新であり、古いものをたずね求めて新しい知見や道理を発見することのはず。新しい知見は、全員が共有できるものである必要はなく、人それぞれの人生が違うように、少しずつ違っていて構わないのだ。
そして歴史認識は、未来の洞察と関わっている。歴史がどのように動いてきたのかを考えることは、これからどのように歴史が動いていくかを考えることにつながる。
マルクスは、階級闘争が歴史を動かすと説いた。その思想を信じた人たちが、階級闘争によって現状を力づくで変えようとした。また、天皇を中心に日本の歴史が継承されてきたと教えられ、そのことを強く信じてしまうと、天皇に忠義を尽くすことが日本人として相応しいということになってしまう。
また、テクノロジーの発達が歴史を動かしてきたと信じている人は、未来もそうやって作られると信じているだろうし、戦争が時代を変えてきたと思っている人は、これからもそうだと思う。時の権力者が自分に都合の良いように歴史を動かしてきたと思う人は、これからも歴史はそうやって動くだけだと諦めて政治に無関心になる。
歴史はどう動いてきたかについて、一つの正しい答を覚えて信じることは、思考停止に陥ることだから、害の方が大きいかもしれない。
歴史は、生き物である。歴史への向き合い方に応じて、姿を変える。それは未来も同じである。
今では多くの観光客が訪れる京都の上賀茂神社。この上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社の一つで、この神社の神体山である神山の麓からは縄文時代後期の土器が出土している。
この神社は、もともとは賀茂氏の神社だったが、長岡京遷都の頃から国家の神社に位置付けられるようになり、桓武天皇によって、平安京遷都以降、平安京の守り神となった。
京都の地図を見ればわかるように、この上賀茂神社の位置は、愛宕山と比叡山という二つの代表的な山のあいだで、京都を南北に貫く中心軸の上にある。
桓武天皇は、天皇になるまでに数々の血なまぐさい政争を経験し、実の弟の早良親王をはじめ、無念の死を遂げた人たちの”怨霊騒ぎ”に悩まされていた。疫病などで人が亡くなったり天変地異があると、怨霊の仕業だから、その霊を鎮めなければならないと、祓いや祈祷を行ったり誰もが必死だった。
律令制の基礎を築いた天武天皇の治世以来、陰陽道は政策決定における重要な位置を占める官僚組織になっていたので、たとえば都の鬼門(鬼が入ってくる方向)に比叡山がある云々と、陰陽道にもとずいて、平安京内の聖域が定められていることは多くの人に知られている。
しかし、その当時の朝廷の陰陽道依存は、現代人の我々が想像するよりも周到であったのではないかと思う。
昔の人の方が現代人よりも迷信深いからというのではない。科学的分別に支配された現代人であっても、初詣の時に神社で購入した破魔矢を、ゴミ箱に捨てたりする人は、ほとんどいないのである。
最初から何もしなければ気にしないことでも、何らかの関係が生じたものは、途中からぞんざいに扱うと罰が当たる。現代人でも、そう考えるのだから、当時の人々は、なおさらだろう。
だから、神様との関係において、陰陽道などを用いて何かしらの条件設定を行えば、それ以降も、その条件を徹底していくということが行われるはずで、そのあたりのところを確認していくと、一つひとつの聖域が持つ意味も、より深いものになってくるだろうと思う。
平安時代以降、国家において伊勢神宮の次に重要な神社となった上賀茂神社に話を戻すと、上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちのかみ)である。
名前からして雷の神様のように聞こえるが、単なる雷の神様ではなく、字のとおり、雷の力で別ける神様だ。一般的に水と火を別けるとされているが、雷というのは、たとえば磁鉄鉱に磁性をもたらす力があり磁石をつくることができるので、砂浜で砂鉄を選り別けることも可能になる。
とくに陰陽道のことを踏まえると、森羅万象を構成する要素である水、火、土、金、木などを別ける力を備える神と捉え直してもいいかもしれない。
次の地図には、京都の代表的な聖域がのほとんど全てが含まれている。
これを見ればわかるように、聖域の位置が、山と盆地の境界で、かつ東西や南北など一直線上にきっちりと配置されている。(寺社の境内は広く、昔はさらに広かったので、一点だけのポイントだけで見ると少しズレているが、空間としてはほぼライン上である)。
京都の代表的な山は、比叡山と愛宕山で、この二つの山が、東西のライン上に並んでおり、その間に京都の都がある。その中心軸のラインは、貴船、上賀茂、一条戻橋、東寺である。しかも、西端の老ノ坂峠、東端の逢坂の関という京都の東西の出入り口が、北緯34.99度の同緯度なのだ。さらに老ノ坂峠は、愛宕山の真南でもある。
上賀茂神社の真西は、火の神、カグツチを祀る愛宕山の愛宕神社で、真北は、水の神とされる貴船大明神が降臨した貴船山。五行の”火”と”水”が、真西と真北にある。
さらに、真東には比叡山があり、真南には、平安京鎮護のために東寺が建造された。
さらに東南の方向に下鴨神社があるが、ここは、元々は巨大な森だった。「糺の森」と呼ばれるこの森は、現在でも東京ドームの約3倍の広さがあるが、平安時代は、現在の40倍の大きさを誇っていた。(応仁の乱で7割が焼失した)。つまり、鴨川と高野川の合流する三角ポイントの広大な地域が、原始の森だったということになる。
つまり、この方向は五行の”木”である。
そして、上賀茂神社の西南の方向には、金閣寺や龍安寺、仁和寺といった京都を代表する寺や五山送り火の左大文字が並ぶが、このライン上にある朱山や衣笠山は、古代からの葬送の場所だった。衣笠とは遺骨を覆った布を指す。つまり、このラインは五行の”土”と言える。
残るは、”金”ということになるが、五山送り火の大文字山、比叡山から琵琶湖西岸の比良の山々は、古生層に花崗岩が貫入した古代の鉄鉱石資源帯だった。比叡山と大文字山のあいだの花崗岩地帯の副成分鉱物の「褐簾石(カツレン石)は、1903年、日本で初めて発見された放射性鉱物としても知られている。そして、ここには、関西で一位、全国でも二位のラジウムを誇るとされる北白川温泉もある。陰陽五行の”金”とは鉱物を指すので、比叡山が、金ということになる。
そうした、金、木、土、水、火のこじつけはともかく、上賀茂神社を中心にして、京都を代表する聖域が、東西南北に広がっていることは間違いない。
さらに興味深いことに、この上賀茂神社の真南、東寺の方向に、一条戻橋が位置していることだ。
この橋は、あの世とこの世をつなぐ橋をして知られ、平安京造営の時から作られていたとされる。
そしてこの橋のたもとに、10世紀に活躍した陰陽師、安倍晴明の屋敷があり、現在は、晴明神社となっている。
陰陽道では、使役する鬼のことを式神と言うが、安倍晴明は、この式神を、一条戻橋の下に住ませていたという伝承もある。
この一条戻橋は、「平家物語」で、渡辺綱が女に姿を変えた鬼と出会う場所である。鬼は、渡辺綱を掴んで空に舞い上がり、愛宕山に向かって飛ぶ。その時、渡辺綱は、「髭切」の太刀を抜いて鬼の腕を切り落とし、北野天満宮に墜落する。片腕を失った鬼は、愛宕の方向へ飛び去る。
よく知られた説話であるが、面白いのは、鬼と出会った一条戻橋と愛宕山の一直線上に北野天満宮があることだ。
日本の三大怨霊の一つとされる菅原道眞を祀る北野天満宮の位置も、方位に従って周到に定められた可能性がある。
さらに、渡辺綱に腕を斬られた一条戻橋の鬼は、平家物語で描かれる橋姫と同じだという話がある。
橋姫は、嫉妬に狂った女が鬼となって夫を奪った女性を殺したいと貴船大明神に祈って鬼となる物語だが、貴船大明神が降臨したと伝わる貴船山は、一条戻橋の真北に位置しているのだ。
これらを確認するだけでも、京都の聖域は、陰陽道などを元にしたコスモロジーに従って位置関係が決められ、平家物語などの物語は、それを踏まえて表現されていることがよくわかる。
平安遷都の時にすでに、上賀茂神社を起点として、南に東寺、北に貴船神社、西に愛宕山、東に比叡山など東西南北の重要な聖域が定まっていたので、その後に作られていく中世の聖域も、このコスモロジーに基づいて、順々に線上に重ねられていった。
上賀茂神社と衣笠山や朱山を結ぶ西南の方向には、金閣寺、龍安寺、仁和寺という京都を代表する寺院が並ぶが、そのラインに五山送り火の左大文字がある。そして、見晴らしの良い朱山の中腹に第66代一条天皇の綾が作られ、一条天皇の火葬場までがこのライン上である。
一条天皇の時代は、日本の精神文化の歴史を考えるうえで重要である。
藤原道長による藤原摂関家の絶頂の時とされるが、正確に言うと、藤原摂関家の栄華の最後の花火であり、藤原氏は、道長と頼通の親子以降、影響力を失っていく。もう少し具体的に言うと、一条天皇の後、貴族の時代から武士の時代に移行していくのだ。
一条天皇の時代は、『源氏物語』を書いた紫式部など日本固有の文学が花開いた時であり、さらに、第60代朱雀天皇の頃から活躍したとされる安倍晴明の影響力が、もっとも高まった時代と言えるかもしれない。
安倍晴明は、一条天皇の前の花山天皇が皇太子の頃から信頼を受けていたが、一条天皇の治世においては、天皇だけでなく藤原道長にも重んじられていた。
藤原道長は、陰陽道を重視していたようで、一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。
また、外出などの際、その方角の吉凶を占い、その方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っており、そのまえに、所有している別の自宅を使っていた。源氏物語の中でも、こうした貴族の陰陽道に基づく風習が描写されている。
そして、今では菅原道眞を祀る神社として知られている北野天満宮だが、祟り神としての道眞を、国家的な守り神へと昇格させるうえで、どうやら陰陽道が関係しているように思われる。
菅原道眞が亡くなったのは903年であるが、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。
道眞が亡くなってから90年近く経っている。
そして、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。
幼少の一条天皇が即位したのは、藤原道長の父親の藤原兼家の陰謀で、安倍晴明に深く信頼を寄せていた花山天皇が、即位して僅か2年、18歳で出家させられて退位したからである。
北野天満宮と、その祭神の菅原道眞が、国家にとって特別なものとなるのは、菅原道眞の死後(903年)の厄災が直接の原因ではなく、国の秩序が大きく変貌しつつある状況のなかで、相変わらず権謀術数が繰り返し行われている時だったのだ。
(つづく)
その全ての内容を、ホームページでも確認できます。