第1135回 卑弥呼の時代に栄えた三島地方の謎

 伝承に登場するほとんどの鬼が、一方からは極悪として描かれているのに、もう一方からは、人情味があったり、人のために尽くし恩恵を与えてくれた存在として描かれている。

 その例としては、吉備の鬼退治に登場する温羅(うら)という鬼がよく知られている。

 また、平安中期、安倍晴明の時代、酒呑童子の家来とされる茨木童子は、京の都で金銀財宝を盗み、人を殺し、女をさらい、渡辺綱と戦い、腕を切られ、大江山源頼光に誅せられる存在として知られるが、茨木童子の出身地候補の一つ、摂津地方での描かれ方は異なり、父母が病気になったと知って見舞いに訪れるなど、外面的容貌は鬼でも、内面が善良な存在となる。

 酒呑童子の”童子”というのは、もともと、大人になっても子供の髪型のままで生活していた流浪の民だが、農民など定住生活者とは異なるパラダイムの住人である。その怪しい人々は、定住生活者が持っていない知識や技術を備えていたし、特別な霊力を持つ存在として崇められたこともあったが、社会から排除されて差別される存在として扱われた時期もあった。

 一般的に、”鬼”の居場所が金属関係の場所とつながっていることが多いので、鬼とは鉱山関係者、産鉄民だと主張する意見もあるが、そういった特定職業集団と定義づけてしまうよりも、金属という重要資源と関係ある地域を治めていた勢力ととらえた方がいいのではないだろうか。

 茨木童子の出身地候補である茨木から高槻にかけての三島地方は、古代、きわめて重要なところだった。淀川沿いにあるこの地域は、古代、瀬戸内海と畿内を結ぶ重要な交通路であった。

 高槻市にある安満遺跡と、茨木市にある東奈良遺跡の二つの弥生遺跡は、日本古代史の重要な鍵を握る遺跡である。

 甲子園球場の5つ分という広大な安満遺跡は、居住群のまわりを壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、方形周溝墓が100基以上確認されている。

 1997年、この遺跡の中にある安満宮古墳から青龍三年と銘記された方格規矩四神鏡が出土した。

 青龍三年というのは中国の魏の年号で、西暦235年のことである。中国では正史として扱われた『三国志』の中の魏書に、倭人について描かれた部分があり、それが有名な『魏志倭人伝』であるが、その中で、景初3年(239)、邪馬台国の女王、卑弥呼が魏に使者を送り、魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記されている。

 当時、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こったが、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めたとあるが、完全に統一国家ができていたわけではなく、卑弥呼に属するクニと、属さないクニがあったことも伝えられている。

 その邪馬台国がどこにあったかというのが、長いあいだ、歴史好きのあいだで論争になっている。

 そして、これこそが、魏の王が卑弥呼に与えたものであると主張する鏡も、各地にたくさんある。有名なのが、京都府木津川市の椿井大塚山古墳で、1953年、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した

 その頃、卑弥呼が、魏の王から与えられた鏡を同盟勢力に配分して国をまとめたという説が出され、大量の鏡が出土した椿井大塚山古墳こそが盟主に相応しいとされ、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡の象徴になったのだが、その後、三角縁神獣鏡が各地で大量に見つかり、1997年には、奈良県天理市柳本の黒塚古墳で33面の三角縁神獣鏡が出土した。結果、魏の王が与えた100の鏡よりはるかに多くの三角縁神獣鏡が発見され、しかもこの鏡が中国からは一枚も出土していないこともあって、三角縁神獣鏡は国産品で、卑弥呼の鏡ではないと考える専門家が増えている。

 そうした中、2020年、大分の日田で発見された鉄製の鏡が、卑弥呼の鏡の可能性が高いと主張する学者(中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏)が現れた。この鉄鏡は、金錯や銀錯が施されており、「そんな鏡は王宮関係に限られるので、魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ること、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と述べている。鉄製か銅製かの違いは、同じ鏡であるので、どちらでも良いそうだ。

 ここまでくると、もう何でもありの世界である。そして、工業技術の高さを示すためという解釈も、あまりにも現代的な考えの押し付けである。

 それはともかく、出土した鏡に年号が刻まれているものは、実はそんなに多くはなく、魏の王が卑弥呼に鏡を与えたとされる239年よりも前のものとなると、さらに限られ、ほんの数枚である。

 その中で、高槻の安満宮古墳から出土した鏡は、もっとも古い235年である。

 同じ年の鏡は、もう一枚、丹後半島の峰山と弥栄町にまたがった大田南5号墳からも出土しているが、この地には、弥生時代のハイテク都市である扇谷遺跡や、名具岡遺跡がある。

 高槻市の安満宮古墳から出土した青龍三年(235)の鏡は、三角縁神獣鏡ではなく方角規矩四鏡である。その背面の文様は、大地は方形で、天はそれをドームのように覆っているという「天円地方」の世界観に基づいて、宇宙の構造を表現している。

 具体的には、中央部に”地”を表す正方形の区画があり、その周縁をとりまくように天穹を表す円が描かれている。そして、その正方形と円のあいだに様々な動物が描かれているが、その中心が、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神とよばれる霊獣である。そして、四神のあいだを埋め尽くす渦状の文様は、宇宙に満ちたエネルギー(気)であり、つまり天地の運航と正しく合体することが、世の中を正しく整えることにつながると考えられたのだ。

 794年に造営された平安京が、東に青龍(鴨川)、北に玄武(船岡山)、南に朱雀(巨鯨池)、西に白虎(山陰道)と配置されるなど、方位に重きが置かれていることはよく知られているが、それよりも500年前の卑弥呼の時代、方角規矩四鏡を所有し、中国と交流があったと考えられる高槻市の安満宮古墳の被葬者もまた、そうした思想を共有していたに違いない。

 古代においても方位や天体の動きは地上を治めるうえで重要なファクターであり、その観測技術も備えていたし、そうした宇宙の構造を地上に模式的に置き換えることも行われていただろう。

 さて、高槻、茨木にある弥生遺跡で、日本史の謎を解く鍵となるもう一つの遺跡である東奈良遺跡は、1973年の大阪万博の時、南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された大規模な環濠集落であるが、この弥生遺跡を有名にしたのは、銅鐸である。

 この弥生遺跡の工房跡から銅鐸の鋳型が35点も出土し、ここの鋳型で生産された銅鐸が近畿一円から四国でも発見されており、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸や銅製品の製作場所がここに存在し、各地に銅鐸を配布するほど政治的な力を持っていたと考えられる。

 さらに、ごく最近の2017年、この東奈良遺跡の真北3kmほどのパナソニック工場跡から、弥生時代中期から後期にかけての大規模な遺跡である郡(こおり)遺跡、倍賀(へか)遺跡が見つかり、140もの方形周溝墓(周囲に溝を掘った墓)や、弥生人をかたどった人形などが見つかり、方形周溝墓の数は、現状では、滋賀県の服部遺跡に次ぐスケールである。

 非常に興味深いことに、この郡遺跡、倍賀遺跡から正確に真北の方位の4.5kmのところに阿武山があり、その南麓に、貴人の墓として大騒ぎになった阿武山古墳がある。

 この古墳は盛り土がないが、埋葬されている丘が円墳のような形で、周囲を見渡せる高さを誇り、丘そのものが古墳といってもいい条件を整えている。 

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阿武山からは、交野山から生駒山にかけてと、その背後の三輪山など奈良盆地の東の山々が望める。さらに、大阪方面も見渡せる

 そして、この被葬者が漆の棺に葬られ、玉枕を敷き、飛鳥時代の最高冠である刺繍糸の織冠であることから最上位クラスの人物と考えられ、さらにX線撮影で腰椎を骨折していることがわかり、落馬の記録のある藤原鎌足ではないかと世間を賑わせた。

 しかし、この阿武山の地は、古代、阿部氏の拠点であるため、この古墳の被葬者は、大化の改新後に孝徳天皇の側近として政権トップの左大臣になった阿部内麻呂だとする説もある。

 教科書においては、645年の大化の改新乙巳の変)は、中大兄皇子藤原鎌足の2人が蘇我入鹿を暗殺して政権を奪ったと教えられるが、その時、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷は生きており、この暗殺事件だけで政権が変わるほど事は単純ではない。

 また、この事件の後、即位したのは孝徳天皇で、政権内のナンバーワンとなったのは阿部内麻呂であり、孝徳天皇が遷都した難波京四天王寺のあるところも阿部氏の拠点だった。当時、阿部氏は、阿部比羅夫が、3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させるなど強力な水軍を束ねていた。また、比羅夫は、白村江の戦いにおいても新羅討伐軍の将軍として朝鮮半島に向かうが、唐と新羅の連合軍に大敗する。しかし、その後は、新羅、唐に備えるためか、太宰師となり、九州における外交・防衛の責任者となっている。

 蘇我氏は、渡来人をまとめあげる力に長けていたが、強力な軍をもっていたわけではなかった。

 蘇我入鹿が暗殺された時に蘇我氏が滅んだのではなく、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷は、入鹿が暗殺された後、情勢の不利を知って館に火をつけて、そのことによって蘇我氏は滅んだ。それまで蘇我氏と良好な関係にあった阿部氏が敵側についたことで、蘇我蝦夷は勝ち目なしと覚った可能性がある。

 阿部氏のことについては、第1123回のブログで書いたように食膳の役割を通じて天皇に仕え、外交や朝廷警護(軍隊)の役割を果たしながら実力を蓄えていった氏族だが、もともとは俘囚(蝦夷から連れてこられた人たち)の可能性もある。陰陽師として活躍した安倍晴明も、この系譜のなかにいる。

 不可解なことは、この阿武山古墳と、弥生時代の謎の鍵を握る東奈良遺跡、都遺跡、倍賀遺跡が、南北7kmのライン上に、きれいに配置していることだ。

 そして、阿武山の麓に、阿為神社が鎮座するが、その周辺、安威古墳群があり、ここには、古墳時代前期の前方後円墳と、古墳時代前期と後期の円墳が20ほど確認されている。なぜか、二つの時代のあいだの古墳時代中期のものは存在しない。

 さらに不可解なことに、このライン上、東奈良遺跡の北1.3kmのところに、茨木童子貌見橋がある。この場所は、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て、自分が鬼であると気づいた場所とされ、その後、茨木童子は、人間界を去ったということになっている。

 これはいったい何を意味しているのか?

 茨木童子が覗き込んだ川というのは、現在はこの場所からやや東を流れている安威川とされているが、この川は、暴れ川で、昔から治水が課題であり、今は、上流にダムが建設中である。

 水源が北にある安威川の流れを遡っていくと、阿武山の麓を通り、竜王山の麓を通り、亀岡へと至る。竜王山周辺は、上質な砕石が採取できる所で、現在でも大型ダンプカーが行き交い、採取された砕石は、各種建設工事の資材として使用されている。

 竜王山(510m)山中も、聖域となっている巨岩が多く、長いあいだ、北摂屈指の霊峰として厚い崇拝を受けてきた。現在、この頂上付近は森林に覆われ展望が得られないため、高い展望台が作られている。その展望台上からは、大阪平野生駒山地・六甲山等、金剛山葛城山、その背後の三輪山の方まで望むことができる。

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山岳修行の舞台であった竜王山は、巨石の聖域が多い。

 茨木童子は、この竜王山で、妖術の修行をしたとされる。

 竜王山の頂上付近に忍頂寺があるが、この寺は、かつては23もの寺坊を有し、箕面勝尾寺などと並び、山岳修行(修験道場)の聖地だった。

 修験道の開祖である役小角が夫婦の鬼を従えていたと伝承されるように、山岳修行を行うものと鬼が重ねられることが多いので、茨木童子竜王山のつながりも、それと関係しているかもしれない。

 ただ、もう一つ気になるのは、この竜王山山頂から真南に5.7kmのところに、古代、名神大社として格付けされた新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)があり、その周辺に5世紀後半から7世紀にかけての30基ほどの新屋古墳群があることだ。

 この古墳群は、古墳時代前期や中期のものは存在せず、古墳時代中期の後半から古墳時代後期(6世紀から7世紀)の古墳群となっている。

 この新屋坐天照御魂神社の祭神は、物部氏の祖神である天照国照天彦火明大神 (アメノホアカリ)であり、社伝によれば、崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、物部氏の祖の伊香色雄命(いかがしこお)に勅して祀らせたのに始まるという。

 阿部氏の祖先、第10代崇神天皇の時の四道将軍の1人である大彦命の母親の欝色謎命(うつしこめのみこと)は、物部氏の出身で、伊香色雄命(いかがしこお)の父親の兄妹であり、大彦命と伊香色雄命は従兄弟ということになる。つまり、阿部氏と物部氏は同族で、この二つの氏族に関係する勢力が、古墳時代の前期と後期、三島の地に勢力を誇っていたと考えることができる。

 さて、源頼光による大江山の鬼退治において、茨木童子酒呑童子の手下という位置づけだが、頼光四天王に征伐される前、茨木童子は、鬼たちの対話の中で、渡辺綱に腕を切り落とされたという述懐をする。

 この話は、京都の一条戻橋で美女に化けた鬼と渡辺綱との戦いとして、御伽草紙や能など、いろいろなシチュエーションで描かれる。

 そして、この渡辺綱に腕を切られる鬼は、平家物語においては、嫉妬のあまり愛した男を殺そうとして、貴船神社の神に、生きたまま鬼になることを願った宇治の橋姫として描かれる。宇治の橋姫は、宇治橋を渡ったところに鎮座する橋姫神社に祀られているが、もともとは、宇治川の守り神で、瀬織津姫と同一視されている。

 水神や瀧神である瀬織津姫は、祓い浄めの女神であり、神道にとっては重要な大祓詞のなかで、山から流れ落ちてきた罪を大海原に流す神として登場するが、なぜか古事記日本書紀には登場しない謎の神である。

 真相は不明だが、瀬織津姫が橋姫で、橋姫が茨木童子であるならば、茨木童子は、瀬織津姫を象徴する何者かであるということになる。

 瀬織津姫は、西宮の廣田神社や、大阪の御霊神社では、アマテラス大神の荒魂と同一神として祀られてきた。

 特に大阪の御霊神社は、平安時代、新しく天皇が即位され大嘗祭が行われた翌年、次の天皇の新しい時代を祈願する八十嶋の祭が執り行なわれていた場所でもあった。これは皇位継承儀礼の一つであるが、その祭事において、陰陽師が京都から難波に来て、この海岸において祭壇を設け、供え物をするとともに天皇の御衣を海に向かって打ち振り、穢れを祓い落とした場所だった。

 このあたりは、飛鳥時代難波京があったところで、四天王寺が建てられた場所は今でも阿倍野という地名だが、阿部氏の拠点だった。

 この御霊神社の真北、修験道の祖の役小角が悟りを開いた箕面山の南麓に為那都比古神社がある。

 由緒によれば、紀元2〜3世紀、このあたりに為那国があり、その国を統括した豪族を祭神として祀っている。

 為那都比古神社の周辺からは縄文時代の遺物も出土しているが、なかでも、団地の造営地で近所の人が散歩中に発見した如意谷の銅鐸は、よく知られている。

 この神社の1km西、如意谷の600m東に医王岩という巨岩があり、この岩を磐座とした原始の信仰が為那都比古神社の原点と考えられる。

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医王岩

 不可解なのは、茨木童子との関係が気になる瀬織津姫を祀る大阪の御霊神社の真北にある為那国の地と、これまた茨木童子と同一である宇治の橋姫が鬼になるために参っていた京都の貴船神社(丹生大明神)を結ぶライン上に、茨木童子が妖術の修行をしたとされる茨木の竜王山があり、さらに、この竜王山の真東が、橋姫を祀る宇治橋であることだ。さらに、京都と亀岡のあいだの老ノ坂にある大江山も、鬼退治の舞台とされているが、この場所にある首塚大明神は源頼光に討ち取られた鬼の首が埋められた場所とされるのだが、この場所も、貴船神社竜王山を結ぶライン上なのである。

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橋姫が鬼になるために神に祈った京都の貴船神社酒呑童子の首が埋められたとされる老ノ坂の首塚大明神、茨木童子が妖術の修行をした茨木市竜王山、かつてこの地にあったとされる為那国を治めていた豪族を祀る為那都比古神社がライン上に並ぶ。為那都比古神社の真南が、橋姫と同一とされる瀬織津姫を祀る御霊神社である。 茨木の阿武山の麓に藤原鎌足もしくは阿部内麻呂の墓だとされる阿武山古墳があり、その真南に、弥生時代の倍賀遺跡、郡遺跡、弥生時代最大の銅鐸製造基地である東奈良遺跡が並び、阿武山の南には弥生時代前期と後期の古墳群がある。茨木童子が、水面に映る自分の姿を見て鬼だと認識した場所も、そのライン上である。そして、茨木童子が妖術の修行をしたとされる竜王山の真南には、物部氏と関わりの深い新屋坐天照御魂神社があり、その周辺には、古墳時代中期の後半から古墳時代後期の古墳群がある。竜王山の真東が、橋姫(瀬織津姫)を祀る宇治橋である。

 

 茨木から高槻にかけての地域は、古代、三島と呼ばれていた。

 三島は、天孫降臨のニニギの妻となって山幸彦と海幸彦を産んだコノハナサクヤヒメの父親のオオヤマツミノミコトを祀る三島系の神社と関係の深い土地であり、伊豆の三嶋大社、愛媛の大山祇神社とともに、高槻の三島鴨神社は、「三三島」とされる。

 そして、神武天皇が世継ぎを決めるにあたって、九州から同行させてきた息子ではなく、畿内において、三嶋湟咋(みしまみぞくい)の娘の玉依姫と、事代主(古事記では大物主)との娘であるヒメタタライスズヒメとのあいだに生まれた子供を正統とした。

 つまり、後の天皇には、事代主(大物主)など出雲系とされる氏族と、三島の氏族の血が流れ込んでいると、記紀のなかで、敢えて強調されている。

 上に述べたように、高槻から茨木にかけての三島の地は、235年の銅鏡が出土した安満遺跡や、銅鐸の一大生産地であった東奈良遺跡など、邪馬台国に匹敵する大きな勢力があったことは確かだ。

 しかし、この地の古墳群は、古墳時代前期や、後期の古墳が多く残されているのに、古墳時代中期が空白となっている古墳時代中期というのは、応神天皇陵や仁徳天皇陵など、それまでの古墳と比べて桁違いに巨大化した古墳が、藤井寺から堺に築かれた5世紀のことだ。

 5世紀、何かしらの理由で勢力図が大きく変わったということだろう。

 しかし、古墳時代後期、6世紀になると、事情がまた異なってくる。

 それまでの王の血統が途切れ、突如、天皇に抜擢された第26代継体天皇は、即位した後の20年間、ヤマトの地に入らず、淀川に近いところに宮を築き、高槻の今城塚古墳に埋葬された。その頃から、再び、三島の地に数多くの古墳が築かれている。

 高槻から茨木にかけての三島の地は、茨木童子で象徴される何ものかの地であり、その何ものかは、瀬織津姫のように、日本社会の中に脈々と伝わっているにもかかわらず歴史の表舞台からは消えている。

 瀬織津姫は、祓いと深く関係している神だが、祓いは、多くの人が考えているような罪や穢れを単純に取り除くための行いではない。

 たとえば御霊会というのは、怨霊を消し去るために行われたのではなく、その霊を鎮めることで、守り神へと転換するためのものだったが、祓いも同じで、エネルギーの悪い流れを良い流れに変えるために行われる。マイナスに見えることでも、自分を生かす力に変えること、それが祓いの真の目的だ。

 日本の宗教において、この祓いの概念はとても重要である。

 学校の教科書では、どの勢力が勝ち残って、どの勢力が敗れ去ったという内容に単純化されて覚えさせられるが、平安時代藤原氏との政争に敗れたとされる大伴氏が、鶴岡八幡宮神職者を続けているといったことと同様のケースは数え切れない。

 また、鬼伝説などで、たとえば源頼光酒呑童子を討伐するシーンでも、頼光たちは山伏に変装して鬼たちと酒盛りをして酔わせて首をはねるのだが、欺かれて首をはねられた酒呑童子が、最期に、「鬼は決して人をだましたりしないのに」と言うなど、鬼の側にも理があって同情を誘う物語となっている。

 三島の地で勢力を誇っていた者たちは、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て自分が鬼であると覚ったように、ある時、鬼とされる側に立たされることになったのかもしれない。

 しかし、その敗者もまた、魂が鎮められることで、良き導き手となる。

 茨木から高槻にかけての三島地方の豪族であったと考えられる三島溝杭は、古事記では、神武天皇の皇后となるヒメタタライスズヒメの祖父と位置付けられるが、別名が賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とされ、これは、京都の古社、下鴨神社の祭神の名前で、山城(京都)の賀茂氏の始祖とされる。

 さらに、もう一つの名が、ヤタガラスである。

 ヤタガラスは、神武東征の神話のなかで、神武天皇を熊野から大和へ導く存在として描かれる。そして、熊野の信仰では、カラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの)とされているのだ。

 中世において、菅原道眞が怨霊から神となったのと構造は同じなのである。

 阿部氏というのは、もともと蝦夷の地にいた人々で、俘囚として畿内に連れてこられて、天皇(朝廷)の守衛を担うことになったという説もある。つまり、もともとは、鬼とされる側である。

 しかし、天皇の側近として仕えることで、食膳を司るようになった。食膳は、天皇の日々の食事だけでなく、外交における饗膳や、大嘗祭など朝廷儀礼において極めて重要で、やがて祭祀全体を取り仕切る役割を持つようになった。

 安倍晴明も、陰陽師として有名であるが、律令制のなかの役割としては大膳大夫という今日で言うところの宴会幹事である。

 また、阿部氏は、朝廷警護という役割から軍事力を備え、朝敵、つまり鬼を討伐するという役割を担う。安倍晴明もまた、陰陽道によって、鬼を鎮める側に立つ。鬼の立場が逆転するのだ。

 この逆転が、日本の古代をわかりにくくしている。

 日本の古代の真相は、誰が勝って誰が負けたという単純な思考、すなわち世に跋扈している「早わかり日本の歴史」という類のアプローチでは、決して解くことができない。