第1113回 自然と人間のあいだ

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 1日の降雨量が、1ヶ月の平均総雨量と等しいとか、その2倍、3倍であるという報道が増えた。

 梅雨の7月は、例年でも降雨量が多いのに、以前なら1ヶ月かけて降り積もった雨量が、たった1日で降ってしまうという状況は、いったい何を物語っているのか。

 地球温暖化との関係が強調されてはいるが、人間にとって都合のよかった気象条件の緩やかな変化を、人間自身の手によって、人間には対応しずらい劇的な変化に変えてしまったということなのか。

 一昨日前、「エベレスト」という映画を見た。1996年の大量遭難事故の事実に基づいて作られた映画だ。
 お金さえ支払えば、登山のアマチュアであってもプロのガイドやシェルパーによる全面サポートを受けながらエベレストに登頂できる。そのようにして、七大陸最高峰にトライすることが人気なのだという。
 あらかじめシェルパーやガイドによって急斜面にロープが張られたりクレバスに橋がかけられたりするので、登攀技術や経験を持たない参加者が多く、そのため登るスピードは遅いし、障害物のある場所などでは混雑で渋滞状態となり、長時間待たされ、それに対して参加者が不満をぶちまけるというシーンもあった。
 この映画の前に、「フリーソロ」というドキュメンタリー映画を観た。ヨセミテのエル・キャピタンという岩山の1000mもの垂直の壁を、命綱を使わず、素手で登るという究極のチャレンジ。ちょっとしたアクシデントが死に直結する。
 二つの映画は、ともに人間によるチャレンジでも、あまりにも対照的であるが、自然の凄まじさは同じだ。しかし、自然の凄まじさを理解し尽くして、その克服のための準備を最大限に行うという姿勢と、自然のことを甘く見てしまう姿勢で、結果があまりにも違ってしまう。
 世界最高峰のエベレストは、天候が穏やかであれば、荘厳で美しく、プロのガイドやシェルパーが至れり尽くせりのサポートをしてくれれば、人に自慢できるような栄光の瞬間を手に入れることができるかもしれない。しかし、ひとたび天候が悪化すると自然の猛威は凄まじい。人間の努力なんかまったく無関係で、あっという間に、死の淵に飲み込まれる。

 とくに、高山などにおいては、一瞬のあいだの気象変化は、天国と地獄の差ほど劇的である。気持ちを整理したり準備を整えたりする余裕なんかまったく与えてくれやしない。
 なので、自然の状態変化を読み取る能力が必要であるし、たとえ何事も起こっていない状況であっても注意深く行動しなくてはならない。油断や欲は禁物だ。また自分の身体状態に対しても敏感でなければならず、状況に応じて弁えて行動しなければ取り返しのつかないことになる。それらは、野生動物にとっては当たり前のこと。
 現代文明は、人間に楽をさせてくれるが、その代償として、人間の野生のセンサーが鈍麻していく。
 野生のセンサーが壊れているけれど現代人にとって最優先の安楽で快適な状態が、人間にとって望ましいことなのか、敏感な野生のセンサーを備えたまま、自然の怖さと素晴らしさに向き合えることの方が望ましいのか。

 1000m近い絶壁を素手で4時間ほどで登りきってしまったアレックス・オノルドは、は、「幸福な世界には何も起きない」と言う。

 アレックス・オノルドは、何も起きない退屈な人生を選択する気持ちはなく、多くの人は、何も起きないことが幸福だと思い、その道を選択する。

 しかし、当人は、何も起きないという状態に安住したくても、自然は、そのように都合よく振舞ってくれない。

  コロナ問題にしても、安全・安心とか科学的分析や対応を強調する声ばかりが異様に大きいのだが、そういったものは、身体的感覚を失った頭(左脳)だけの情報操作にすぎないのではないか。
 対策をきちんとしてもらえなかった、正しい情報をもらえなかった、だから危険な目にあってしまったという不平や不満の声は、現代社会では簡単に多くの支持者を得る。
 自分の野生のセンサーを大事にしている人なんか、ほとんどいないからだ。
 もはや野生のセンサーという言葉自体が、非科学的でリアリティのないものになってしまっているので、それを失っているという自覚もないし、そのことに対して反省する必要もない現代社会。
 野生動物の世界では通用しない人間様だけの論理で、どこまで押し通せるのだろうか。

 

 

 

 

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