第1111回 わかりやすい自分事と、わかりにくい他人事で切り分けるのではなく。

 近年、テレビメディアやSNSの影響からなのか、人々は、わかるかわからないか、共感できるかできないか、という単純な線を引きたがる傾向が強い。
 しかし、わかることや簡単に共感できることというのは、自分の経験の中で処理できることにすぎず、重要なことは、わかるかわからないかではなく、わからないことへの自分の向き合い方なんだと思う。
 わからないことは不安なことだから、どうしても自分から遠ざけてしまいたくなる。それは異なる価値観への排斥や、時には暴力行為にも通じる。
 しかし、自分の人生についても、どうすればいいかわからない問題に直面することは多い。自分の問題なら自分で考えて行動するしかないが、たとえば身内が重い病を患っている場合など、自分ではどうしようもなく、どうすればいいかもわからず、心苦しく見守るしかないということだってある。そういう苦しい心境を吐き出せる場を見つければいいという考えもあるけれど、吐き出したところで救いになるわけではなく、じっと堪えて向き合い続けるしかない。
 私は、わからないことだらけの古代のことを、敢えてピンホールカメラで向き合うという選択をしているが、ピンホールカメラで撮った写真というのは、見るというより、眺めているという感覚になる。針穴を開けている長時間露光の時も、風景を見ているというより、眺めている、もしくは、その状況を祈るような気持ちで見守っている。
 眺めたり見守る時というのは、その瞬間だけを見ているのではなく、その先に思いを馳せている。その先に思いを馳せる感覚は、祈りに近い。
 そして、その先というのは、未来でもあり過去でもある。
 たとえば病の中にある身内のことを思う時、その未来のことを心配すると同時に、過去の懐かしさが苦しくなるほど胸に迫る。
 それは、現代の病んだ社会のことを思う時だって同じだろう。
 私たちは、祈るような思いを抱いている時、切り取られた現代のこの一瞬だけに向き合っているのではなく、過去と未来と重なった現代に向き合っている。そういうトータルな時間は、見るというより、眺め渡すような感覚だ。部分的に曖昧であるか明晰であるかという分別はどうでもよく、全体として、それらのトータルな時間が、自分事であるかどうか。
 最新のカメラが典型だけれど、解像度をあげることが、物事を正確に映し出すと現代人は考えている。

 監視カメラの高性能化によって、犯人を特定しやすくなり、はるか上空を飛ぶカメラで地上の様子が手にとるようにわかる。かつてのSF世界の中で私たちは生きている。 

 このように解像度をあげることを良しとする監視世界の正確さとは何なのか? それは、当面の課題解決のための正確さであるが、その部分の解像度があがり、そこに意識を集中するにつれ、当面の課題以外の大事なことが次第に見失われていく。 

 たとえば、今回の新型コロナウィルス騒動にしても、1日の地域ごとの感染者数や感染経路などが詳細にニュースで伝えられる。全体の時間は限られているわけだから、一つ事が詳細になればなるほど他の事が締め出される。新型コロナ騒動のあいだ、世の中で、他に事件は何も起こっていないかのようだった。

 しかし、日本国内で、不幸にも新型コロナで亡くなった人はいるものの、同じ期間に自殺したり交通事故で亡くなっている人は、はるかに多い。一月から5月まで、東京だけで自殺した人は797人。全国だと7797人。毎日、60人弱が自殺していた。

 コロナウィルスで亡くなった方は、日本全国で、6月26 日現在で968人。その大半は70代以上で持病のある方なので、無神経な言い方かもしれないが、コロナウィルスに感染せず、他のインフルエンザや風邪、熱射病でも亡くなった可能性のある人だって大勢いる。

 そうしてコロナウィルスで亡くなった人や、その遺族のコメントに報道の時間が割かれるなか、コロナ禍の最中に自殺した人や家族の何人が報道で伝えただろう。問題がないのではなく、問題が常態化してしまっているから伝えられないだけで、新規の問題のことだけが異様に解像度が高くなっている。私たちは、そのように高解像度によって修正された現実に生きているという認識が大事だ。

 一番の問題は、この近視眼的な目だ。環境問題、地域紛争、教育格差や経済格差、世の中には様々な課題があるが、近視眼的な目でしか物事を見られなくなると、当然ながら、他の部分が見えなくなり、現実感覚に偏りが生じる。

 現代の問題を、現実感覚に偏りが生じた思考で解こうとしても、さらに問題を複雑化させるだけなのだ。

 仮想敵が最新の武器を備えれば、それに対抗するためにこちらも最新の武器を備えて、そのことが仮想敵にさらなる対策の口実を与えるという堂々巡り。

 現代の問題を考えるために、現代の解像度をあげて見るということが、果たして、現代の問題を正しく見ることになるのか?
 どこまで解像度をあげても表層的なものにすぎないのではないか。
 現代の問題の本質を考えるためには、未来と過去を重ねて捉える視点が必要なはずで、それは、トータルな時間全体を眺め、見守るような眼差しであり、そうしないと、現代において著しく欠損しているもの、見失っているものを発見できない。
 高解像度の精密な描写というのは、物事を正しく写しているのではなく、恣意的に切り取った範囲のことを、わかったつもりになって処理することにだけ向いているとしか思えない。
 重要なことは、わかることではなく、わからないことに対する作法。
たとえわからなくても、もしくは、わからないからなおさら、自分ごとの感覚が深まること。
 作為的に技巧的に、ある種の虚栄で難解にしただけのものは、自分ごとの感覚から遠ざけるばかりで、人を他人事に導いてしまう。
 わかりやすい自分事や、わかりにくい他人事は世の中に無数に存在するが、わかりにくい自分事こそが、自分の未来の在り方につながっているのだと思う。

 

 

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