第1009回 古きを温めて〜日本の風土と魂の行方〜


小野妹子の古墳 滋賀県 大津市


 現代のことが気にならないわけではないし、子供を持つ親として未来のことも心配だ。
 そして、政治や経済が、未来のあり方に大きく関わってくることも理解している。
 しかし、それ以上に、今改めて、私たちの足元文を見つめ直すことが大事だという気がしている。
 グローバリズムという掛け声で、その国特有の文化よりも世界標準が優先される時代であるが、心の問題までグローバル化して標準化できるはずがない。
 私たちの心は、私たちが生きている土地に根付いている歴史文化や、気候風土によって育まれている。
 現在の日本人は宗教がないと言われが、お墓参りは欠かさないし、苦しい時に神社や寺で手を合わせる人は多い。私が住んでいる京都東山の六道珍皇寺では、お盆の期間、先祖の魂を迎えるための鐘をたった一回打つために、連日、長い行列ができている。
 未来のことを考える時、日々入れ替わる先端技術、産業の盛衰、ブロックチェーンベーシックインカムといった新しいシステムや時事的な事件などの情報も必要だろうが、それだけでは不十分だ。
 なぜなら、戦後、ずっと目標にし続けてきた”幸福像”を、そのまま信じていいのかどうか、瀬戸際にきているからだ。
 私たちは、私たちが理想とする未来に向けて、努力をする。私たちは、これまで続けてきたように、物質が豊かで便利な生活だけを求めて、これからも努力を重ねるのだろうか。
 
 日本人の魂のことを考え続けた民俗学者で、グラフィック雑誌「太陽」の編集長で、歌人でもあった谷川健一氏が、こんな歌を残している。

 稚(わか)き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗わぬ髪の燃え立つ匂ひ

 まだ幼かった自分を背負ってくれた女性の洗わぬ髪の燃えたつ匂い。その女性は決して豊かな家の人ではなかっただろう。しかし、そんなことは関係なく、その記憶は、生々しくて、甘酸っぱい。懐かしくて、胸が焦がれるような思い。その陶然たる生の瞬間は、安楽で快適な日々よりも、自分の人生の確かな足跡として鮮烈に胸に刻まれ続ける。
 乳母に背負われた経験がなくても、幼少期から思春期にかけて似たような記憶を抱き続けている人は多いと思う。学生時代、憧れの女子の傍で嗅いだ汗の匂い。汗で髪の毛も乱れてべたついていて、それでも眩しいほどに美しかった。
 お金をかけて着飾って自分を演出することよりも、当人は無意識でも、はるかに美しく輝く瞬間がある。
 さらに、背負われて伝わってくる背中の温もりと、うっとりするような安心感。そこには、無力な自分を完全に依存してしまえるカミサマのような大きな存在がある。
 日本人の抱く極楽は、蜜の河が流れ、甘い物がたくさん手に入るところで楽しいことだけを続けるという類のものではなく、もっとささやかで、それでいて充分に心を満たしてくれるものだ。
 たとえば、日本人は、疲れ果て冷え切った身体を湯船に浸す時も、充分に極楽を感じる。
 その幸福感は、永遠に保証されるものではない。湯船から出たり、背中から降ろされ自分の足で歩かなければならない現実があるからこそ、よりいっそう有り難みを感じるものであり、キリスト教のように、最後の審判の後、永遠に天国で遊ぶ権利を獲得するようなものではない。
 限られた時間の極楽。それでも、その彼岸に対する憧憬の思いは永久であり、心の支えであり、救いである。
 私たちは、未来のことを気にかける。そして新しい情報に飛びつく。しかし、自分にとっての幸福がどういうものかわかっていないと、情報の取捨選択もできず、周りに流されるばかりである。
 新しく珍しい情報をあくせくと追いかけなくても、日本の自然風土は、それだけで充分に多様で豊かである。そして、日本の歴史文化も、実に謎めいていて、魅惑的である。
 中世の日本人も、古代の日本人も、同じように感じていたのではないか。はるか縄文の時代から受け継がれ、積み重ねられてきた日本の文化は、日本の自然と響き合っている。だから、現代の私たちも、縄文土器万葉集西行芭蕉の言葉から、多くのイメージを獲得できる。
 そして、日本人の死生観や他界観は、目の前に存在している自然に即しているので、海や山、岩や古木などが、彼岸と此岸を行き交うための、具体的な出入り口となる。
 だから、人工物に覆われた現代に生きていても、磐座や古木を見る時、我々は、言葉にならない何かを感じる。一切の加工がなされていない大きな岩が山のてっぺんに鎮座するのを見るだけで、古代人の魂と通い合える。
 人工知能ブロックチェーンベーシックインカムも大事なテーマだけれど、魂という水源が涸れてしまえば、どんな手段を講じようとも、幸福の潤いはない。
 魂は、古いところとつながっており、その古いところこそが未来の卵を温める巣であり、それは、自分をおぶってくれた人の背中なのだ。懐かしくて、温かくて、人生の岐路に立つ時、道しるべとなり、心の拠り所となるものだ。



☆「日本の風土と魂の行方」をテーマに、ピンホールカメラで写真を撮り続けています。
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