送迎殺害事件について

 このたびの幼児送迎殺人について幾つか思うところがある。

 様々な有識者の意見のなかで、「二度を同じ事件を起こさないために、外国人を日本社会で孤立させないための心構えとか取り組みが必要である」といった立派で正当な意見に私は違和感を覚える。

 「外国人対策」という意識を持つその時点で、差別の萌芽を感じてしまうからだ。

 海外の都市に暮らしたことのある人はわかると思うけれど、外国の地域社会において異国人交流が特に盛んであるとは思えない。最初のうちは、外国人ということで好奇心の眼を向けられるが、しばらくすると無視される。言葉がつたなかったりすると露骨に厭な顔をされることもある。

 そういう時は腹が立ったり落ち込んだりするが、相手は、こちらのことを明確に外国人と区別して接していることがわかり、その区別意識を感じることで、こちらは自らのアイデンティティを再確認することがある。「オレは日本人なんだから、しかたないな」という感じで。

(区別と差別は違うと思う。差別というのは、同質であることが前提の世界のなかで、実際には差をつけて取り扱われる時に生じる痛みだと思う)

 区別世界のなかで、自らのアイデンティティを確認しながら様々な葛藤に耐えていると、時々、外国人は、日本に深い関心や尊敬を示すこともあり、そうした際、少し得意な気分になれることもある。

 中国人は、世界中に中国街を作って生きているが、彼らは、地域社会に溶け込むという考えはあまりなく、どこに住もうが自らのアイデンティティを目一杯発揮して生きている。そのバイタリティは凄い。

 妙な気遣いによる同化の装いは、もともとが異質のものだから無理が生じる。互いにへりくだって接しているような気がして息が詰まる。そうした当事者達に「自然に接しなさい」と言ったところで不可能だ。だから、異質なものは異質なものでけっこう、付き合いたくないものは付き合いたくなくてけっこう、という突き放した雰囲気の方が、互いに居心地よかったりする。

 私はパリに暮らしている時、最初は孤独を感じたけれど、途中から空気のような存在になっていくのが心地良かった。そして、その中で、たとえ少数であっても気心の知れた人とだけ付き合えばいいのだという雰囲気が快適だった。パリに住む以前、ベルギーの田舎で三ヶ月ほど居候のような生活をし、相手がこちらに気を遣っているのがわかり、こちらも相手に気を遣うような状態が続き、その時は、とても心が疲弊した。

 今回の送迎殺害事件の人は、様々な事情で、できるだけ中国人と知られないように生活をしていたと聞く。中国人であることが知れて差別されたことがあるという報道もあるが、それ以上に、この夫婦間で、日本人の装いをしたい、した方がいいという無意識か意識的な判断があったのではないか。

 もちろん、そんな偽りのことをしても溶け込める筈がないし、同時に、自らのアイデンティティも放棄して生きることを強いられ、負い目ばかり感じることになってしまう。

 そして、もう一つ。これは、現在の中国と日本の両方に共通する問題なのだけど、自分が置かれた理不尽な状況に対する耐性の低下が著しくなっているのではないだろうか。

 新しく会社に入ってくる人なんかでも、「理不尽なことはイヤ!!」という人が増えている。「きっちりと自分が納得できないと、ヤレナイ」という感じで。

 そういう時、私は、なだめたり、御機嫌をうかがうように説得したりせず、「ボケ、カス、マヌケ」という態度で接するようにしている。ちょっと横暴かなと反省することは少しはあるが、自分のキャパがとても大きければ、その大きなキャパのなかで「自分が納得できること」をやればいいのかもしれないけれど、キャパが小さいのに、そのキャパのなかで「自分が納得できること」などと言っていたら、何もできないからだ。

 「自分が納得できないこと」に晒されると、当然ながら大きな葛藤が生じて、苦しくなるのだが、そうした状態に晒されることが子供の頃から日常化していると耐性のようなものが付くし、その理不尽さのなかで、あれこれ智慧を働かせて乗りこえることの楽しみも見出せる。

 おそらく、科学的にも、人間はもともとそういうジレンマにぶつかった時、耐えて何とかしようとすると快感を感じる物質が体内から出るのではないか。そうでないと、こんなに脆弱なホモサピエンスが氷河期を乗りこえて、高山から熱帯から砂漠から地球上の全ての場所に住むことができなかったと思う。

 でも最近の親の子供に対する接し方は、理不尽なことをさせないという傾向が増えているように思う。

 「親の言うことを聞け!!とか、屁理屈は言うな!!とか、理由なんかない、お父さんの言うようにしなさい!!」という言い方は横暴で、きちんと説明して納得させるのが正しい教育だという学者さんもいる。

 また、昔のように兄姉が多くないから、お菓子の奪い合いとか、年長の兄姉に理不尽なことを押しつけられることも少ない。結果として、ジレンマに耐える経験が少なくなり、ジレンマの時に出る快感物質がでなくなってしまうのではないかと思ったりする。

 ジレンマに耐える快感がわからない人が増えて、そうした人が言論などで優位を占めると、益々、「理不尽なことはいかん!!」という風潮が蔓延し、益々、理不尽なことに対する耐性が弱くなり、悪循環が起こる。

 元々、世界は理不尽極まりないものなのに、「理不尽なことはいかん!!」などと言って、無理矢理に人間が理解納得できるような環境世界を作りあげようとすると、悪弊が出ることは避けられない。

 そして、中国というのは、近代化に関して日本の後を追ってきたような錯覚があるが、近代化のなかに宿る合理性とか極端な人間主義とか、理不尽を排除する衝動は、日本より先行しているところがある。森林破壊とか、街の再開発における古い街並みの破壊とか、極端な拝金主義とか、極端な一人っ子政策とか、何のてらいもなく徹底するところがある。相手がお金持ちで生活に困らないという理由だけで、結婚をする人も多い。

 そして今回の事件は、たまたま中国人が起こした。しかし、これは今日の中国特有の環境に育った人だからなのではなく、日本でも子供を取り巻く環境はほとんど同じで、「理不尽なことは厭だ!!」という自分中心主義は蔓延している。

 自分が納得できないという理由で、「ヤッテラレナイ」と開き直って周りを壊し、結果として、永遠に納得のできないジレンマ地獄に陥る。

 「理不尽なことを我慢したり、価値観の違いとか他者を尊重することが大切です」などという正しく立派な言い方も、一種の知的分別にすぎず、知的分別というのは、状況次第で理由が変われば、分別も変わってしまう。だから、そういう知的分別ではなく、身体的な体験として、「やっぱり全然違うんだ。違っていいんだ。わけがわからないんだ。だから面白いんだ」みたいな驚きが快感のように感じられることが必要だと思う。それは、「理不尽をがんばって受け入れましょう」という啓蒙的なことではなく、それを当たり前のこととして納得感を伴ってわかるという感覚だと思う。

 理不尽というわけのわからなさが、人生のおもしろさになる。

 仕事でもそうだが、理不尽を周到に排除してしまうと、結果として「退屈」しか残らない。わかっていることが永遠に続くなんて状態は、実は、快適でもなんでもなくて、苦痛でしかない。

 にもかかわらず、「退屈」をその場凌ぎで紛らわすものが多すぎるため、それに気付くことも現代ではとても困難な状態にある。

 現代社会は、今回のような事件が起こった時に必ずといっていいほど出てくる立派で正当な意見よりも、違和感や異質感を魅力に転換してしまう言葉こそが必要なんだと思う。簡単なことではないだろうが。