自分の中の意味を無化する「他者」の力

 私は一人で編集をしているが、自分一人でかってに考えを巡らしているわけではないつもりだ。ものごとを相談する編集者はいなくても、執筆者や写真家に、その人ならではの世界観や人生観をもっている人が多いので、彼らとの会話のなかから、考えるべきことのヒントを獲得することが多い。

 世間の狭い常識を超えた領域でものごとを考え、取り組んでいる人との話しは、単に刺激的であるということではなく、人間の存在の根本的なあり方や、可能性の幅を感じさせられて、何か広々と大きなところに出られるような感覚になる。

 直接そういう人と話しをすることがなくても、本や作品を通じて、同様の体験を得ることは可能だ。

 だから私は、考えに行き詰まった時、集中的に本を読んだり、集中的に美術館などに行く。

 こういう時は、何かしら触発されるものを期待しているので、ハウツーものだと意味がない。というのは、言葉に簡単に置き換えられる「情報」や「納得感」が欲しいわけではないからだ。その程度のものなら、既に自分のなかに答えはあり、その答えを後押ししてくれる程度のものは、自分の狭い視点を固定するだけで、たいして心が動かされない。

 本や芸術や人との出会いは、私の場合、共感のためではなく、自分の中の未知の領域を活性化してくれるものを期待している。気心がしれた人間と出会うことは安心だが、時には、自分には理解しがたいパワーを発揮している人と会うことで、エネルギーを得ることができる。

 本や美術や人など、自分のなかに用意がされていないものと出会う時、それは「他者」と会っていることになると思う。

 人と会っていても、自分のなかに既に用意されているものしか感じられなければ、それは「他者」と出会っていることにならないだろう。

 たとえば自分の子供と付き合っている時など、いつも顔を合わせている相手にもかかわらず、こちらが用意しているとおりの答えどおりにならず、それが面白いなあと思うことが多い。子供の頭の中はいったいどうなっているのだろうと、不思議で、感心することがある。

 世の中にはいろいろな人がいるが、会っていて触発されるのは、子供と付き合っている時のような、面白さやときめきを感じさせてくれる人だ。

 子供の一番いいところは、常に新しいこと。現状に諦めて妥協していないところ。固定観念がないところ。失敗を引きずらず、ポジティブなところだ。やってみなければわからないという感覚を、そうした方がいいからそうするという分別ではなく、あたりまえのものとして備えていて、実行している。 

 多くの大人は、様々な分別で自分を縛っている。その分別の範疇で語り合っても、互いに何かを触発されることもない。「特別によくもないけど、この場は、とりあえずそういうことでいいんじゃないか」という程度の妥結点を見いだすくらいで、「すっごくいいねえ」というレベルまでアイデアが発展していくということはまずない。そういう会議ならしない方がましだと私は思っている。

 人と出会った後、何かしら広々としたところに出たような感じを受ける人がいる。それは、人間の豊かなバリエーションを感じさせてくれる人だ。

 人間のバリエーションは、人間の可能性の幅だ。

 たとえ世間的に評価が高かったり成功している人でも、人間の存在の仕方について幅を感じられず、バリエーションの豊かさを感じられないこともある。それは、私たちのなかに既にできあがっている思考の枠組みのなかで、優れているかどうか、うまくたちまわって成功したかどうかということにすぎず、人間そのもの存在の仕方について新しい可能性を示しているわけでないからだろう。

 そういう人と会っても、私は面白いと思わない。新鮮でも何でも無い。自分の行き詰まった思考を広いところに導いてくれる力にならない。

 成功していようがいまいが、その人ならではの発想や思考を長きにわたって継続し、それに基づいて行動し続けている人は、その人にしかわからない問題に何度も直面し、その人ならではの方法でそれを乗り越えてきている。その人が直面する問題は、その人ならではのものだから、他人には正確にわかりようがない。既存の枠組みのなかの常識をアドバイスとして伝えられても、人生に対するアプローチがまるで違うのだから、有効にならない。

 そういう人は、その人ならではの方法で生きていくしかないのだが、長いあいだ、そのように生きてきたことが下支えとなって、他人から見ればとんでもないようなことでも、ごく当たり前のことのように淡々と取り組んでいたりする。その得体の知れない力が、とても面白い。

 そのように多彩で面白い人間が多数存在していることを知れば、「生きる意味」などといった問いに拘泥することはないだろう。

 同じような人間ばかりのなかに埋もれてしまうと、なにゆえに同じタイプの人間がこれだけたくさん必要なのだろうと考え込んでしまうし、その一員になっていくことが宿命づけられていると思い込んでしまう自分の人生に対しても意義を感じにくいかもしれない。

 人と違っていて、かつ面白い人というのは、その存在だけで、人をハッピーにする。それは、上に述べたような「生きる意味」に対する問いを無化する晴れ晴れとした力に満ちているからだ。

 子供が未来に希望を持つためには、そういう人と接する機会を多くつくってあげることだろう。

 多くの先生のように、ステレオタイプな「生きる意味」や「生き方」を語る人と会っても、ハッピーを感じられない。

 自分のなかにある「意味」に収まりきれないことが、「他者」の魅力なのだ。いくら大勢の人と出会ったとしても、自分の中の「意味」で安易に定義づけられてしまうならば、それは一人の自分と会っていることと変わらない。いくら莫大な数の本を読んでいたとしても、同じことが言える。

 情報知識をたくさん持っていても、人間としての幅とか厚みを感じられない人は多い。

 本当の「他者」は、自分のなかの「意味」を超える。だから、自分のなかの「意味」に安住したい人にとっては、脅威だし、目障りなものだが、自分のなかの「意味」を常に疑っていたり、その檻の外に出たい人にとっては、新たな思考の扉であり、可能性の幅なのだ。そういう多様な「他者」との出会いがないと、人の思考や感受性は、ますます狭く閉じてしまい、その反映である人生も卑小でいじけたものになってしまうのだろう。


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