対話と自然と芸術

 湯河原の温泉宿で、東北大学の北村正晴教授や、東京電力の方々、東京新聞の方々、田口ランディさん、雑誌オルタナの編集長たちと、対話合宿を行った。

 テーマは、原子力発電所の推進派と反対派の間に立って北村さんが長年かけて行ってきた“対話”に関するものだった。

 午後三時半から深夜二時頃まで、食事などの休憩を入れながらずっと話し込んでいたが、時間はあっという間に過ぎていき、10時間という長さをまったく感じなかった。

 10時間かけても、まだまだ語り尽くせないことがある。1時間程度のシンポジウムで充実した対話の実現は絶望的に難しいことを再確認する。

 今回のこの対話を通して何かしらの解答が出たのかというと、ノーだ。ならば、無意味だったかというと、まったくそうではなく、とても手応えがあった。解答が出ることではなく、自分のなかの何かが少し変わり、自分の中に新しい風が少し吹き抜けるような感じになっていることが、自分にとって大きな意味がある。

 人間は誰しも固有の人生を生きてきているから、一人一人が自分のなかに刻み込んでいる記憶をもとに素の言葉で語ると、まったく同じ文脈というものはない。異なる文脈を持つ者が、相手の言葉を聞きながら、相手の文脈を理解しようとする。そして、自分の文脈を理解してもらおうとする。自分にとって新しい文脈を完全に消化して理解するのは簡単なことではない。経験で足らないところを想像力で補うことになるからだ。 

 結果的に、お互いの文脈の完全な理解に至るとは限らないけれど、相手の文脈(言葉の背後にあるもの)が、自分のなかに流れ込んでいることはわかる。

 それは新たに手応えのある体験を得ることだ。その体験によって、人や世界の見方が少しは変わる。それが、対話の成果なのだろうと想う。

 言葉は、正しいか間違っているかという分別よりも、言葉のなかに生きてうごめいているものを通してつながっていくことが、大事なことではないか。 

 異なる人生のバックグラウンドを持つ者同士、相性が合う合わないというのがあって当たり前だ。利害が対立することもあるだろう。どんな状況でも人類はみんな仲良く手をつないでやっていかなくてはならないなどというのは、しょせん無理なことだと思う。というより、私は、そうした状況になる方が気味が悪い。何らかの事情で手をつなげなかったりすると、憎まれて村八分にされそうだから。 

 誰とでも仲良く手をつないでやっていかなくても、いいではないか。手をつながないからといって憎むわけでもない。

 自分と相性が悪く手をつなげない人の言葉や態度の背後にも、その人ならではのものが生きてうごめいている。その内容を具体的に理解できなくても、その人ならではのものが生きてうごめいていることだけでも理解できれば、その人に出会う前に比べて、自分のなかに新たな人物像や世界像が付け加えられる。「いろいろなことを背負っている人がいるのだなあ」とか、「理屈どおりにはいかないなあ」という思いが付け加えられる。その体験によって、その時以降の自分の言動に何かしらの変化が生じる。つまり自分が少し変わる。それは対話が成立したということだと私は思う。

 対話の場に臨みながら、自分の本心を隠して、他の人が言っていることを右から左に流すだけであったり、専門用語で自分を必要以上に武装したり、自分の考え方ではなく、形式的なことをステレオタイプに繰り返すだけであったりだと、自分の中に生きてうごめいているものは、相手に伝わらない。相手は、投げかけられた言葉の背後にあるものを感じることができない。そうした言葉のやりとりは、新たな体験にならないから、自分を変えることもできない。


 こうしたことは、言葉の対話の場合だけでなく、芸術や自然との対話の場合も同じだと思う。

 今回の湯河原での合宿からの帰り道、真鶴で途中下車して、中川一政美術館に行った。 

「絵は芸術ではない。絵の中に生きてうごめいているものが、芸術だ。絵がきれいか、汚いかというのは、芸術とは関係ない。」といったことを中川一政が言っているが、その言葉どおり、彼の絵は、きれいか汚いかの分別を無化して、鮮烈に生きていて美しい。


 中川一政美術館は、真鶴の原生林のなかにあり、美術館を出て森林浴を楽しみながら散策をして、海まで歩いた。

 鬱蒼と巨木の生い茂る森のなかには、多彩な鳥たちが飛び交いながら、嬉々としてさえずっていた。そして海は穏やかで柔らかな太陽の光に眩く照り輝き、無限に連なるさざ波の震動とともに反射光が美しく揺らいでいた。

 「海」とか「樹木」とか「鳥」とか、形によって区分されて言葉として定着されたものが自然なのではない。それらのなかに生きてうごめいているものが自然なのだ。

 中川一政は、晩年、この地に移り住んで絵を描き続けた。アトリエのなかに閉じこもるのではなく、外に出ていかなければならないと彼は言っている。

 外に出て、自然と出会い、自然と対話すると、形として目に見えているものよりも、その内奥で生きてうごめいているものに敏感にならざるを得ない。

 対象のなかに生きてうごめいているものを感じる時、実は、生きてうごめいているのは、それを見ている自分自身なのかもしれない。おそらく、対象との対話によって、波動のようなものが行き交い、相手と自分を震わせているのだろう。それが生きるということなんだろう。そして、自然や人間などとの対話を通して自らの内に生じた生命の手応えを、自らの外に再構成したものが、芸術だろう。

 その芸術の存在意義は、それを見る人と出会い、対話するところにある。芸術を見た人が、理屈を超えた力に触れ、少しでも人間や世界に対する見方を変化させる時、その人は、みごとに芸術と出会い、対話をしたことになるのだろう。