情報伝達における、目に見えにくいモラルについて

 今朝の新聞の折り込みに、政府広報として、C型肝炎感染の危険がある血液製剤が納入された約7500の医療機関のリストが公開されていた。

 新聞折り込みの政府広報(8ページ)として全国約3000万世帯に配布するそうだ。

 →http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080116-00000081-mai-pol

 もちろん、こうした活動が大事であり必要だと私も思う。

 しかし、私は天の邪鬼なので、「政府広報」という言葉が気になる。その広報活動じたい、予算(つまり税金)からお金が使われているのであれば、その額も公表すべきだと思うのだ。

 国が責任を認めた。そして、その責任を果たすために、被害を受けた人に補償をする。 補償するにあたって、こうした広報も含めて、様々なことが必要になる。それらは全て、税金でまかなわれる。

 そして、こうした広報活動が、新聞社などの善意で無償で行われているのなら、新聞社の心意気とかスピリットに対して最大級の讃辞を送りたいのだが、「被害者の救済」を誌面で訴え続けてきた新聞社が、もしもこうした政府広報でちゃっかり儲けていたりすると、いったい何なんだという暗澹たる気持ちになってしまう。

 私はこのブログで、「いろいろなことを偉そうに批判している」という印象を持たれたりするけれど、私が身分不相応に批判しているのは、「いろいろなこと」ではなく、「メディア」や「学者」をはじめとする情報伝達の権威に限られている。それ以外のことは、批判しないし、批判する必要もないと思っている。

 「情報伝達」の権威は、「いろいろなこと」を批判できる立場にあるし、実際にそれをしている。しかし、彼ら自身のことは、同業他社間では批判できるが、お互いがメリットを享受していたり、業界内で当たり前になっていることについては、たとえそれが世間の感覚とズレているものであっても、誰も指摘しない。

 私が気になるのは、その部分なのだ。

 「メディア」は、そうした牽制が少ないがゆえに、鈍感になり、それが積み重なって、自分では気付かないうちに横暴になり、欺瞞を欺瞞と思わなくなる。

 第二次世界大戦の時と今は違うと言うかも知れないが、その構造は同じだと私は思っている。

 あの時代と違うことがあるとすれば、メディア権力のスタンスではなく、ブログをはじめ、「個」の情報発信がやりやすくなっているということだろう。

 政府、官僚、企業に対しては、市民団体などからなるオンブズマンが、市民の立場から監視する活動を行っているが、情報伝達の権威に対する活動は簡単にはいかないと思う。

 法的に白黒はっきりとわかる悪業ではなく、もっと微妙なことだからだ。

 たとえばシンポジウムに関してのメディアの後援とか協賛にしても、文化活動を支援しているように見えて、実は知的権威付けの”冠料”を徴収しているケースもあれば、本当に協賛・後援しているケースもあるらしい。しかし、その境界を認識している人は、おそらく世間ではほとんどいないだろう。

 そのグレーさは、悪徳ではなく、ビジネスだ。だから裁かれる類のものではない。しかし、お金儲けの”文化”なのか、それとも文化のことを本気で考えているのか、”情報”という非常にデリケートなものを取り扱い、それを伝える人に何かしらの影響を与える責任を自覚すれば、もう少し明確にする必要があると思う。

 扱っているものは違うが、食品メーカーの「賞味期限の問題」と、仕事に対する誇りや、消費者(読者)への誠意、モラルなどの面で、同じ性質のものだと私は思っている。