日本という国に生きる限りは(2)

  前回のエントリー、「日本という国に生きる限りは」に対していただいた質問に対して、私の考えをもう少し書きます。  
  現在の混迷する日本の状況のなかで、自分がどう生きていくのか、そして日本はどうなっていくのかという問い。この問題は、このたびの震災のように社会に大きな揺らぎが起きている時に、常に問われてきたことだと思います。かつても、オイルショックとかバブル崩壊とか金融危機とか、何度も何度も社会が揺さぶられるような出来事がありました。そのたびに、政治、経済、教育等、いろいろな分野で手が打たれて今日の日本の姿があります。
 福島原発にしても、1973年、第四次中東戦争とともに起こったオイルショックで、日本に石油が入ってこないかもしれないと不安になり、現在と同じようにトイレットペーパーの買いだめなどが起こった大パニック以降の日本社会のエネルギーを担ってきました。
 それ以外にも、公害問題など日本人が経験したことのない深刻な事態が次々と起こり、そのたびに日本社会は揺れ動きましたが、社会機能が完全に停止することのないように色々な手が打たれ、今日まで何とかやってきました。
 そうしたプロセスとともに生きてきた人達(団塊世代など)は、おそらく、日本の現状に対して何らかの不満を持ちながらも、より深刻な問題を抱えた他国などと比べ、日本は遥かに優れていると思っているに違いありません。だから、真剣に今の状態を根本から変えようという気はないでしょうし、何か事件が起これば、たとえ付焼き刃的であっても、その都度、上手に対症療法を行えば何とかなると思っているのではないでしょうか。
 そのように戦後社会の経済発展のプロセスとともに生きて来た人達(団塊世代等)は、その下の私(49歳)の世代に比べて人口も圧倒的に多く、現在の政治、企業、大学等の様々な分野でイニシアチブを握っています。彼等は、現在あるような日本の形を作り上げてきた原動力だった人達ですから、今の日本を否定することは自分の人生を否定することになります。だから、この人達がイニシアチブを握っている限り、日本はあまり変わらないと思います。でも、そろそろ、企業等においても、この人達が引退する年に差し掛かっています。彼等が一線から退くことで、これまで、団塊世代の管理下でどうせ無理だと諦めていたような人達が、少しずつ自分の思いを具体化していこうという動きを創り出していくことが大事でしょう。日本の変化は、いつもそうですが、誰か特定の優れたリーダーによってなされるのではなく、無数の人達の考え方や行動のベクトルが集って作り出されるのは間違いないと思います。
 今の20代や30代と団塊の世代では、かなり価値観が違います。社会を作って行くのは、最終的には、価値観の総体だと思いますが、そこに至るまでは、既存のシステムの権力構造が障壁となります。具体的に今の日本社会でも、年齢の下の者が、経済的にも地位的にも社会の中で力をもちにくい構造がありますし、数の上でも政治力を持ちにくい。さらに、社会的に自分を優位なポジションに置くために、既存の権力構造にへりくだって従属し、自ら巻き込まれていく若者も大勢います。
 本来は、新しい価値観を掲げて、既存の権威構造のなかに切り込んで行くべき若い表現者でも、何の後ろ盾もない不安定さに耐えられないため、組織に所属することで権利を守られる企業人よりも、権威にへりくだる人が多いのが残念です。
 昨日よりも今日の方が豊かで生きやすいと思いながら未来を信じて生きてきた団塊の世代に対して、年とともに、どんどんと生きにくくなり、未来が先細りしているように感じている新しい世代。そうした息苦しさに対して、既存の権威構造の中心にいる人達は、社会に原因があるのではなく、個人に問題があるかのように情報操作します。もしくは、自分の立場をしっかりと守ったうえで、そうした悩みに理解のある良い大人を演出し、その問題解決のイニシアチブと影響力を自分の側に置こうとします。新しい世代の生き難さを救う一番の方法は、自分が長く居座り続けているポジションを空けることだとは、夢にも思っていません。
 消費バブルを作り出して来た人達と、バブル以降を生き始めた人達では、ベクトルが真逆です。だから、バブルを作り出して現在の権威機構の中心にいる人達の評価などを無視できる心身のタフネスさを持つことが、新しい価値観作りの第一歩ではないかと私は思いますが、実は、このことが一番難しいのです。
 例えば、受験制度や就活なんてものも既存の権威機構の産物ですが、心のなかで否定していても、現実がこうだから仕方ないと言って、渋々、従属する人が大勢います。
 また、テレビや新聞の在り方を批判しているのに、表現者などで、自分や自分の知り合いがテレビや新聞などに取り上げられると、すごく喜んだり、自慢に思う人も大勢います。有名人になれば、仕事も増えたりするので万々歳という感じで。
 さらに、新聞社などが主催し、それぞれの業界の重鎮になっている業界権力者が選考する賞を受賞すると、それだけで自分の努力が報われ、時代社会のなかで意義ある仕事ができたと錯覚する人も大勢います。
 そこに政治もからんで、例えば伝統的な祭りなども、テレビへの露出がないと助成金をもらえないという理由で、神聖な場所にテレビカメラを平気で入れるようになってしまい、祭り本来の性質が損なわれているものも多くあります。

 本当に新しい潮流というものは、現在の権威機構にへりくだったり、お墨付きをもらうようなところから出てこない筈ですが、現在の権威機構は、その頂点にいる人達の人口が非常に多いことや、戦後社会の様々なシステムがその人達を中心に作り上げられたこともあって、極めて巨大で堅牢なものです。
 様々な矛盾が少しずつ蓄積し、その臨界点に達しようとする状況になって、新しい
生き方を模索し、自分なりの価値観を育んでいく人は、これからさらに増えるでしょう。しかし、上に述べたように、既存の権威システムにおもねる部分が多く残されているかぎり、社会の構造は変わらない。
 既存の権威システムの中にポジションを得た方が生きやすいと考える人が多いため、その中での競争が激しくなる。そして、競争によってヒエラルキーができ、勝者は驕り、自分の都合の良いように社会を維持しようとするだろうし、敗者は卑屈になって自分が社会を変えていく当事者であると考えなくなるかもしれない。それでも、その世界の競争に参入したい人が多いかぎり、そのシステムは有効に機能する。

 そうした権威システムに背を向け、自分なりの方法で自立して生きていこうとすると、道が整えられていないので惑うことも多く、非常に骨が折れる。それでも、そうした固有の道を歩むことの悦びを知り、それを貫徹するタフネスさと矜持のある人が増えてきた時に、社会は本当に変わるのだと思う。独りだと、そこまでのタフさがなくても、仲間が増えてくれば心強くなる。相変わらず既存の権威システムは強力かもしれないが、仲間を見つけることは、以前よりも、かなりやりやすくなっていると思う。