日本という国に生きるかぎりは

 当面の問題としては、放射能がやってくるから東京も危険という声もあるが、今回の大災害が伝えていることは、どこに行けば安全かといった問題ではないのだろうと思う。

東北の大地震を連日ニュースが伝えていた13日に、霧島で再び噴火があったようだ。1月26日に霧島の新燃岳で大規模な噴火があったことは、地元住民以外の人々の脳裏からすっかり消えているが、東北の後、新潟、長野、静岡と断続的に起こっている比較的大きな揺れや、つい先日のニュージーランドなど、太平洋を取り巻く地震帯で相次いで発生している大地震。昨年のチリ大地震アイスランドの大噴火もそうだが、地球上のプレートとプレートの境目にあたるデリケートな部分が、活性化しているのは間違いない。

 その意味で日本は、太平洋プレート、フィリピン海プレートユーラシアプレート、北米プレートという四つのプレートが重なり合う非常にデリケートな所に浮かんでいる島であり、こうした自然災害を免れて生きていけない筈の国だったのだ。

 地震には活動期と静穏期があるそうで、戦後しばらくの間は幸運なことに静穏期であった。しかし、その状態を当たり前のものとして受け止め、原発をはじめ、この不安定な土地になじまない脆弱な思考や価値観や物を数多く作り上げ、積み上げてきた日本社会。

 冷静に考えるまでもなく、日本と欧米とは自然環境がまったく異なる。自然の力によって、人間が築き上げてきたものが一瞬にして破壊されてしまうという歴史的経験が、まるで違う。日本人は、長い歴史のなかで、容赦のない自然とどう折り合いをつけて生きていくかを真剣に考え、生活文化をつくりあげてきた。

 なのに、いつの間にか、そのことをすっかり忘れてしまい、欧米を真似した生活スタイルに憧れ、せっせと欧米化を進めてきた。欧米流の生活をするためには、欧米と同じようなエネルギーが必要になる。だから、数多くの原子力発電所を作らざると得なかった。地震なんてほとんど発生しない国のエネルギー獲得の方法を、世界で最も地震が多い国が真似しているのだ。

 なんてことだろうと思う。なんでまた日本人は、せっせと欧米人のようになりたがったのだろうと思う。自分達が生きている環境の特殊性のことを、すっかりと忘れてしまって。

 「日本の伝統的文化を守らなければならない」などと、義務感でそうするのであれば、そんな必要はどこにもない。

 そうではなく、文化というものは、もともと、それが生まれた土地の自然風土と深く結びついているものだ。人間が、自然風土のなかで賢明に生きていく為の知恵の結晶なのだ。

 賢明に生きていく為には、まずは自分が生きている環境のことを、よく知ることから始めなければならない。そして、大人は子供に、それを第一に伝えていかなければならない。

いつの間にか、大人は、その義務を怠るようになり、グローバルスタンダードなどと、世界中のどこにでも通用する都合の良い知恵があるかのように錯覚してしまった。

 グローバルスタンダードなどというのは、最初にその場を作り、その場から利益を得る仕組みを握っている者が仲間を増やすことでその仕組みを盤石にし、自分の優位性をさらに強めていく仕掛けだ。そういうものをまったく気にする必要がないとは言わないけれど、せいぜい斜めに見る程度にして、自分の足元こそをしっかりと見なくてはならない。

 グローバルスタンダードをはじめ、欧米がみずからの優越性を維持するための仕組みが無数に張りめぐらされ(ノーベル賞だってそう)、知らず知らず、それに追随することを余儀なくされ、自分の中に様々な矛盾をつくりだしていることを、今こそ自覚する必要があるだろう。

 日本のこうした状況づくりをリードしてきた人の多くが、欧米から学び、日本にそれを紹介してきた人であり、彼等からすれば、欧米の優越性を誇示することが自らのポジションを高めることにつながった。そうしたスタンダードを作った人達は、自分の存在意義を賭けて、そのスタンダードを強化する。そうしたカラクリによって地位を得ている人達を、能天気に祭り上げている場合ではない。

 欧米の合理的思考というのは、世界を人間の分別だけで判断することが可能な場所ととらえる傾向があるように思う。だから、今回の大地震のように人間の計算を超えた事態に遭遇した場合は、“例外”として扱う。つまり、自分に都合の悪いことは、例外扱いなのだ。

 欧米の場合、人間に潰滅的な打撃を与えてきたものは、自然よりも、圧倒的に戦争の方が多かった。そして、ペストだ。どちらも、人間の手で管理しようと思えば可能な範疇のものだ。その為、人間の理性を信じ、その理性を徹底的に極め、理性を超える例外的事態が生じても天任せにせず、一つひとつ根気よく理性で対処してきた。そうして地上に、人間の理性で管理が可能だと思わせる世界を築き上げた。その延長線上に、人間と人間のあいだで、自分の優位性を確保するための争いが起き、その争いを何とか理性的に解決しようと努力を続ける。それが欧米文化だと思う。

 それに比べて、人間の力の及ばない出来事が頻発する場所で生きてきた日本人は、欧米人のような理詰めの論理的思考は、仮にできたとしても有効でないケースが多かった筈だから、あまり発展しなかった。だからといって何もしないわけではなく、ある種の“緩さ”のある思考によって、自らが置かれた危機的な状況を切り抜ける術を身につけていったのではないかと思う。頑丈で高い石の壁を築くことで自らを守る“官僚的な人”よりも、柳のようにコシが強く柔らかで自在性のある対応のできる人が、名人と呼ばれ、尊敬されたのだ。

 今回の東北の大地震を教訓に、ということではなく、戦後の経済発展期は、たまたま自然活動の“静穏期”だったのであり、それが永久に続くという錯覚は捨て、これからは過去にもよくあったように、自然の“活発期”がやってくる可能性があるという自覚が必要だ。日本のどこに行けばより安全かという発想は、西欧的合理主義の延長にすぎず、そうした部分的な計算が、裏目に出ることも多い。世界全体や人生全体を見渡し、どこにいても何をするにしても万全なものは何一つないという緊張感を抱きながら、かといって大騒ぎすることなく、淡々と日本人は日常を繰り返してきた。そうした営みと心の構え方から日本人特有の知恵が幾つも生まれてきた。これからは、いたずらに欧米を真似するのではなく、自分の足元を見つめ直し、その中で最適なことは何かと模索していくことが、いっそう大事になるのだろう。

 急激に昔のような生活を送ることなどできやしないけれど、少し意識を変えるだけで、今からできることはある。

◎物を大切にして長く使うこと。

 ◎量より質を重視すること。

 ◎用途ごとに物や人を揃えるのではなく、風呂敷のように、ニーズによって自らを変容させて対応できる知恵を持つこと。

◎便利さや快適さよりも、やり応えとか達成感を重視すること。

◎数字などで表す結果より、プロセスの充実を重視すること。

◎1を奪い合って、対立し、競争するのではなく、1+1を3にも4にもすることで、その恩恵をともに受取ること。等など・・。

  こうした考えは日本の経済力を縮小させるだけだと批判する学者も多いが、経済力が大きいことで恩恵を受けている人がそう主張するのであって、経済力が大きくても小さくても、受取る恩恵は変わらない人が多い。それどころか、経済力信仰に裏切られて悲惨な思いをしている人も多いだろう。たとえば、ローンで物を買う人が増えれば経済力が大きくなるので、ローン購入を奨励する政策がある。その政策にまんまと乗せられて、人生の可能性の幅を狭めてしまっている人は多い。

 今、自然の凄まじい力と、原子力発電所という人間の計算力が作り出した、完璧に見えて実は気の弱い人間のような、少しでも不安定になると際限なく不安定になってしまうヒステリックな物が暴走し、人間に脅威を与えている。

 自然への畏れと、人間の底の浅い計算や小心さと裏表の傲慢さへの反省心を、同時に取り戻さないと、身を滅ぼす段階にきていることは間違いないだろう。