郷に入れば、郷に従う 

 私は、もともと出版業界とは無縁で、別業態の仕事をしていた人間が、たまたま「風の旅人」を作ることになり、それゆえに、メディア・出版世界と接点が生まれることになった。

 どちらの世界にもどっぷりと足を突っ込むと、一方の側で「常識」と思っていることがもう一方の側で、まったく異なることがわかる。

 情報を伝える側は、その常識の違いを頭ではなく身体で理解していなければならないだろう。

 たとえば介護の現場のことなども、介護の現場の人は、自分たちと「常識」の違うメディア世界のことを、あれこれ論じる機会をほとんど持てないが、「メディア世界」の住人は、それができる。その際、自分たちの「常識」は、自分たちの世界だけで通用する「常識」かもしれないという配慮が少しでもあればいいのだが、そうではなく、自分たちの「常識」の枠組みに相手をはめこんでしまうことが多い。

 もちろん、どちらの世界も、そこに住んでいる限り、その世界の常識に馴染んでいる。しかし、メディアは、相手の世界に介入してしまうことが仕事であるがゆえに、自分たちの世界の常識に馴染んでいるだけではダメだと思うのだ。

 郷に入れば郷に従う。これは単なる処世術ではないと思う。郷のなかには、その郷を形成している様々なものを整えて生かすシステムが固有にあり、まずはそれに馴染み、自分のものにしていくことから始めなければ、その郷のなかで、他と有機的に連関することができず、自分を生かすこともできないだろう。

 おそらく、郷のなかで他と有機的に連関していくプロセスじたいが、その人らしさであり、郷のなかのその人らしい関係性によって、その人らしい仕事が生じる。

 世間一般の企業の転職および職人の世界においても、それは当たり前のことで、異なる郷に入ったら、まずは様子を見ながらそこにあるシステムを探り、そのシステムと自分を関わらせながら折り合いをつけて、そのなかで自分を生かす方法を考えるだろう。

 しかし、今、私が出版の仕事をしていて、出版業界からの転職者と何度か短期間だけ仕事をしたのだが、新しい”郷”にもかかわらず、その”郷”のシステムとは関係なく、自分のシステムでモノゴトを行おうとして不協和音を生み出してしまう人を見てきた。

 その”郷”のシステムに賛同できないと、それに従うのは厭だとか、従うことは抑圧だとか妥協だとか、自分を殺すことになるとか。

 自分の”頭”のなかの材料に自信のある人(現代では知的と言われる)は、今この瞬間の自分の頭のなかにある材料で、答えを出そうとする。

 新しい”郷”で時間を経ておらず、それに関する材料が自分の頭のなかに充分になくても、そのことは当人にとって重要なことではなく、今この瞬間の自分の頭のなかにあるものだけが大事で、それに従って答えを出す。頭のなかにあるものを偽らないということで、当人にとっては、ある意味で純粋だが、少し時間が経過するだけで頭のなかの材料も変わって、それに従った答えを性急に出すので、言っていることが、ころころ変わってしまう。でも、その都度、純粋なので、一貫性がなくても、当人はさほど気にしていない。

 自分の”頭”のなかの材料にさほど自信のない人は、頭に頼ってモノゴトを決めない。「答えが出るまでは、時間がかかる」ということが、何となくわかっている。だからタフだ。取材などでいろいろ話しを聞いていても、楽しい。

 取材などでも、取材する側があらかじめ決めていることの範疇で話しを聞いて、その枠組みで処理する人もいる。写真を選ぶ場合も、同じだ。

 そういう対象は、切り取る側の都合で好きなように切り取られて、それそのものが死んでしまっているので、見る側にとって心に響くものにならない。

 取材でも写真でも、その人や、その写真を生かしている隠れたシステムというものがあり、そのシステムを手探りで見つけだして、そのシステムに基づいて再構成することが、それそのものの生命を引き出すことだと思う。

 写真家や作家なら、そうしたスタンスの仕事に意義を感じて実践し続けている人も多く、その種の仕事のパートナーを見つけることはできるのだが、編集者のパートナーの場合、見つけることはとても難しい。頭ではそうしたスタンスの仕事に意義を感じると言う人は多いが、実際に実践し続けていないので、それがどういうことか肌でわかっていないことが多い。

 実際に実践し続けていないと、それが今できるかどうかではなく、時間をかけることで折り合いをつけながら少しずつそういう方向に自分を持っていくことが大事なんだと、わからなくなってしまうのだ。実践がないと、頭で抽象的に考えるばかりになってしまうから。

「風の旅人」のことを評価してくれて、これに関わって仕事をしたいと言ってくれるけれど、いざやるとなると、私の仕事のやり方やスタンスではなく、あくまでも自分のやり方やスタンスで関わりたくなってしまう。少しずつ慣らして、機を見て自分のスタイル(編集内容だけでなく仕事のスタンスも)を打ち出すという時間の付き合い方ができればいいのだが、最初から強引にそうしようとしてしまう。それが自分にとっての純粋だと思ってしまう。

 それでうまくいけば、この世はもっと自分に都合良く単純になるのだが、実際は、そうなってはいない。頭のなかの出来事と、現実は異なる。

 長いタームでの仕事ではなく、目先の結果にバタバタと追われることに慣れてしまっているのが原因ということもあるのだろう。「長いターム」という言葉を理解していても、身体でわかっていないのだろう。

 どちらがいい悪いではなく、「風の旅人」という情報伝達の場のシステムをどういう類のものにするかという固有の問題にすぎないのだが、固有の問題ゆえに他に簡単に取り替えができるものではなく、その固有のシステムを地道に育んでいくしかないと私は思っている。それが、「風の旅人」の”業”であり、”郷”なのだから。