文化の供給過剰と価値基軸の喪失

 7/5と6にエントリーした新聞社の件について、もう少し、私の考えを述べたい。

 このエントリーを読んだ人は、 「大手の新聞社が大金を受け取ってそれを記事になどしたら、新聞としての社会的信頼を失ってすぐに新聞として成り立たなくなる。だから、そんなことはあり得ない」と思うかもしれない。

 しかし、この事実には、単なる新聞社の体質の問題だけでなく、今日の社会的状況も反映されている。

 大手新聞社にも、インテリ特有の理性と良心と正義感があるから、お金になれば何でもやるということではないと思う。

 私が書いたような状況になるのは、今日の社会において、”文化的なこと”というジャンルで括られることが、あまりにも多いからだ。

 歴史、科学、芸術など、それぞれの分野に所属する人たちは、自分たちの行っていることが文化的貢献を果たしていると思っており、その継続のために、スポンサーを探したり、政府などから予算を確保するために一生懸命だ。一つ一つの組織は、「自分たちのやっていることこそ大事だ」と思っているが、客観的に見れば、人に知られていないものも含め、そういうものが無数にある。

 それに比べて、スポンサーになる企業や政府の予算は限られている。新聞の紙面も限られている。限られた紙面で物事を紹介して、その紙面から得られる収入で新聞社は食べている。新聞を販売する収入は販売店などが得るだろうから、新聞社の稼ぎの主要部分は、広告とタイアップであり、このことは、雑誌やテレビでも同じだ。

 美術館なども、自治体から十分な予算をとれるところは別として同じ状況らしく、展覧会の企画の段階で、入場料収入を計算に入れて収支を計算してはいけないそうだ。

 数日前のエントリーで紹介した昔のペルーの写真でも、その発表権を持つ人が美術館に行って最初に言われたことは、「作品の良さはわかりました。でも、その前にスポンサーを見つけてきてください」だ。そして、スポンサーになってもらおうと思って、大手写真メーカーに行ったところ、「作品の良さはわかりました。でも、このスポンサーになることで、自分たちにどんなメリットがありますか?」と逆に問われたと言う。

 美術館にとれば、発表するための作品は、古いものも新しいものも無数にある。どれを紹介しても大して変わらない。しかも、スペースは限られているから、スポンサーを見つけやすい作品を優先的に紹介するということなる。スポンサーを見つけるための法則は、有名であること。企業担当者にプレゼンしても、彼らは作品そのものを判断しない。有名かどうか、大きな賞を取っているかどうか、社内でもコンセンサスの取りやすい、わかりやすい理由が必要になる。ピカソなど有名画家の展覧会が異常に多いのは、ファンが多いというよりも、作品が多いために先方と交渉しやすいということと、スポンサーが付きやすいという理由だろう。

 近年、国立西洋博物館が、作品の数がきわめて少なく、そのうえ日本であまり知られていないジョルジュ・ド・ラ・トゥールの素晴らしい展覧会を成功させたが、あれは、当時の館長だった樺山紘一さんの情熱と、国立ということで国の予算が付いたからだと思う。

 だから現在の日本では、作品の質が高いかどうかではなく、いろいろな意味で取り扱いやすかったり、取り扱うことのメリットの高いものの露出が多くなる。そして露出が多いことが立派だと錯覚され、そのものの権威がますます高まるという循環になっている。安直なハウツー本でも、時流に乗ってベストセラーになると、講演が殺到し、露出が多くなることで、さらに依頼が増えて行くという構造なのだ。  

 こうした状況になる原因の一つは、当人の問題というよりは、おそらく”文化”とされるものの、過剰供給だ。価値観の多様化などといいながら、なんでもかんでも”文化”になってしまっている。

 なんでもかんでも“文化”という状況のなかで、何をどう選ぶかだが、その基準は、作品の質というより、好き嫌いであり、自分にとって都合の良いものだ。それを紹介する側も、見る側も。

 だから、新聞社が、お金をとれる”文化”を優先的に紹介したとしても、誰も気づかないし、気にも留めない。そもそも、“作品の価値”を決める基軸そのものが失われているのだから。

 有名な評論家が評価付けし、それを後ろ盾にして“作品の価値”を誇張するという方法もとられるが、それは後付けにすぎない。評論家はそのように利用されているだけであり(出版社にとって都合の良い評論家の方が露出が高まり、有名になるので、自ら進んで、その役割を引き受ける人も多いが)、その展覧会が行われている背景には、誰かに都合の良い絡繰りがあることが多い。

 作品の価値の基軸そのものが失われた一番の理由は何だろう。

 私は、昨日のエントリーで書いた、“基本”が失われたからだと思う。

 学校教育をはじめ、広く浅い知識を身につけることを重視するばかりで、生きて行くうえで一番肝心な、「自分が目指す方向性を指し示してくれる感受性を養うこと」が行われていない。

 この感受性が養われていないから、有名だとか、実利的メリットを基準にして判断するしかなくなる。

 美術館や企業など、紹介する“文化”を選ぶ側も、それを見る側も、自分が目指す方向性を自分のなかに宿らせていないから、どの“文化”を見ても、フィーリングとして好き嫌いはあっても、そんなに心に響かず、同じ価値になってしまう。一括りに、「文化は大事だ」という教養だけは身につけているが、自分が目指す方向性がないと、今、この時期に、何か大事かという判断に結びついていかない。

 もはや、文化は、骨董になり、コレクションになり、教養になり、人生の彩りという余興的なものになり、よもや社会や人生を変える力を潜在的に持つものだと思う人は、ほとんどいなくなった。

 歴史でも科学でも芸術でも、それに出会うことで、目が開かれ、人生や世界が、それまでと違ったように見えることがあるなどと、ほとんど期待されなくなった。多少の期待があっても、それを基準にして選ばれ紹介されるということがなくなれば、私たちの人生や世界の価値観は、ますます狭い領域に閉じ込められ、窮屈で不自由なものになっていくだろう。


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