基本について

 数日前、武術家の甲野善紀さんと精神科医名越康文さんと会って話しをしている時、ものごとの“基本”についての話しとなり、思考や行動などにおいて“基本”をつくることの大切さと、それにとらわれることの問題という話しが出た。

 甲野さんの場合、武術での基本というのは、具体的な身体の使い方を覚えるということだが、それにとらわれると、動きが居付いてしまう、つまり、あるところに拘束され、不自由になってしまう。先に進めなくなるということで、「基本に忠実に」ということをあまり信用していない。名越さんも、たとえば自分では自由にフェアに“思考”しているつもりでも、自分のなかにできあがっている“基本的な枠組み”に居付いてしまっているかもしれないということを、どこかで意識しておかなければならないだろうと言っていた。

 ただ、このような話しをする時に、基本とか型という言葉の意味するものを、まずは詰めておかなければならないだろう。

 基本とか型が大事だと言っても、物事を固定化する“形式”のことか、よりダイナミックな動きを引き出すための“スタンス”なのかで、話しはまったく異なっている。

 私は、前田英樹さんのもとで、新陰流という剣術を学ばせていただいているが、新陰流は、“軸”と“型”の基本が生命線になっている。その“軸”とか“型”は、そこに居付いてしまうような“形式”ではなく、それによって相手を制し、かつ、そこを起点として、よりダイナミックで自由な動きを引き出すものだ。(未熟ながら、そういう印象を私は持っている)。

 それで、“基本”という言葉をどう定義づけるかということだが、名越さんと甲野さんとカルメンマキさんの鼎談本「スプリット」のなかで、名越さんが、達見を述べられている。


「基本というのは、たとえば基本動作とか、基本的知識という言い方からすれば、ある具体的な形態やまとまりをもったものであるわけですが、それらは何のためにあるかというと、僕は、武術であっても歌の世界においても、自分が目指す方向性を指し示してくれる“感受性”を養うためにあるのだと思うのですね。基本動作、基本的技術を身につけたとしても、この“感受性”が育っていかなかったり、かえって鈍ってしまうようではそれはまったく“基本”であるといえない。」

 基本の定義は、まさしくこの通りだと私も思う。ならばそれぞれの活動領域で、“基本”にあたる行為はどういう形をとるべきか、ということが問われる。

 武術や歌の世界にかぎらず、会社の仕事、教育現場などにおいて。

 編集という仕事の現場でも、編集に関するハウツー的な基本知識や基本動作を知りたいという人が多いけれど、そういうものは、本気でやり出せばすぐ身に付くことで、そんなことよりも、この仕事で目指す方向の“感受性”を養っていくための思考や行動を蓄積していくという“基本”の方が大事だと私は思っている。

 “目指す方向”がわからない、だから、どう考えて、どう行動すればいいかわからない、という人が多い。

 目指す方向が定まれば、動き出せる、そういう思考が、いつの間にか私たちの癖になっている。日本の教育なども、そういう思考の癖にもとずいて行われているように感じられる。

 “目指す方向”を定める前に、広く浅く知識を備え(つまり選択の可能性の幅を広げ)、その中から選択し、選択してから、その専門を一生懸命に深めていくという動き方だ。このなかでの“基本”は、広く浅く知識を備えるというところにある。一見、何の矛盾もないような動き方であるが、いざ“選択”するという段階で、その決め手がなくて途方に暮れる人が多いのではないかと思う。

 そして、これが今の大学制度の根本的な問題だと思う。

 昨夜、前田英樹さんと話していて、「今の大学生は、基本ができていないからという理由で、高校の世界史をもう一度教えるという下らないことをやっている」という話しになった。広く浅くの裾野がどんどん広がっている。

 広く浅い知識を身につけることを“基本”にしているから、一番肝心な、「目指す方向性を指し示してくれる感受性を養うこと」につながっていかない、だから、選択の決め手が自分のなかにできないという苦しい状況に導かれる。

 高校の履修問題にしても、「広く浅く基本的知識を身につけること」と、「受験のために、教科を絞る」という葛藤でしかなく、どちらにしろ、“感受性”とは無関係の表層的な議論でしかない。

 こんなことをしていても、自分の子供を含め、若い人が幸福な人生を送れるような気がまったくしない。

 幸福の概念はそれぞれかもしれないが、最低限、「自分の行っていること」と、「自分が目指す方向」が、紆余曲折があるにしてもリンクしているという手応えを得なければ、人生が不毛に感じられ、その息苦しさから逃れるために、刹那的な余興でごまかすしかなくなる。目指す方向を指し示してくれる感受性を養う機会(基本)がなければ、その不毛から抜け出すこともできない。

 その基本を、たとえば学校教育などで、どのように身につけるのか。

 前田さんは、「広く浅い知識は、基本などではなく、基本ができれば、あっという間に身に付くこと。基本を身につけるということは、ベルクソンでも本居宣長でもいいが、一人の先人の思想を丸ごと身につける覚悟で、それに取り組むこと。毎日、毎日、少しずつ。」と言った。

 世界史の授業のように、名前を覚え、年号を覚え、彼らの実績を記号的に覚えるのではない。そうした動き方は、自分のなかに既にできてしまっている偏狭な価値観の枠組みに、雑学として整理して収めることだから、感受性を耕すことに、まったくならない。目が開かれることもない。一人の深遠な人間と全人的に付き合うことによってはじめて、自分のなかに“基本”ができる。

 その“基本”は、単に知識の蓄積を意味するのではなく、自分の想定を超えた領域まで考え詰めた人間と、書物を通してでも対話をすることで、時には理解できずに悶々とすることで、理解できなかったことが腑に落ちるという自分のなかの変化を知ることで、自分のなかに、それまでになかった感受性が生じることを意味する。

 それが何の役に立つのか、を問うてもしかたがない。なぜならば、それがなければ自分のなかに“スタンス”ができず、自分の人生だと手応えをもっていえる状態に、近付いて行けないのだから。

 

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