愛という言葉の錯覚

 国とか人とか子供とか物などを人は愛すると言うが、対象を愛していると自分で思っている時の本当の理由は、多くの場合、その存在が無くては自分が不便になるとか、不安になるとか、寂しくなるという自分サイドに原因があるのではないだろうか?

 本当は自分サイドに原因があるのだけど、それを隠して、その対象が素晴らしくて愛する価値があるのだと、自分や周りを言い聞かせているのではないだろうか?

 つまり、そうした時は、自分の不足分を相手に補ってもらいたいという思いが根底にある。

 人は誰でも不完全だから、誰かに不足分を補ってもらいたいと思うのは自然だという人もいるだろう。確かにその気持ちは人間にとって自然だろうけれど、それを”愛”という言い方でカムフラージュすると、”愛”という言葉は善なるイメージがあるので、「愛しているんだから」という言葉となって、歪んだ行動も正当化される。極端になれば、ストーカーとなり、その妄執が巨大化すれば、他国への侵略になる。

 相手と会えないことが寂しいからといって、相手に八つ当たりをすることも、同じベクトルにある。対象を愛するといいながら、その正当化によって、相手への配慮心を失い、相手を害するのだから。

 私は、何かを愛すると言う時、国や物や人など個別の存在のなかに愛する価値や意義があることよりも、その存在とともにあることで生じる”空気”が、愛すべきものであることが大事だと思う。

 愛すべき空気というものは、人によって違うかもしれないが、私の場合、心の平安につながるもので、しみじみと味わい深く、飽きない。その空気のなかで時とともに自分との対話が深まり、その確かな感覚が自分のなかに生じることで、自分の孤独が強くなる。

 人から見ればボロボロで何の魅力もない手帖でも、自分が使い込んだ物は、自分との間に強い呼応関係が生じているからこそ手放せないのだ。

 大事にしている本、音楽、物、風景なども、それそのものの中に愛すべき価値が普遍的に存在しているというより、自分とそれらとの間の呼応そのものが、愛なのだろう。

 そのように、愛は、流動的なものだ。自分と対象との間に生じる呼応関係こそが愛だから、その関係性に変化が生じて空気が変わると、愛は薄まったり、濃くなったりする。

 自分の愛は変わらないなどと主張する人は、対象との関係において生じる愛のことではなく、自己愛の頑なさを表明しているのだろう。

 国(自分の子供でもいいが)を何とかしたい、何とかしてやりたいと思う気持ちは、はたして愛だろうか?

 国との関係における本当の愛は、自分自身と、自分が生きているこの場所との関係において、しみじみと味わい深く、心の平安につながる空気が生じなければ実現しないのではないかと私は思う。

 苛々とした気持ちを抱えながら、国(自分の子供でもいいが)を何とかしたいなどと思う気持ちは、愛というより、”関心”の強弱の一つの様相にすぎないだろう。関心というのは、愛に至る不可欠なプロセスではあるが、愛そのものではないという自覚が大事ではないか。愛という呼応関係で重要なことは、相手への不平や不満を言う以前に、相手への配慮を失っていないかどうか、相手を害していないかどうか省みるスタンスなのだから。

 とはいえ、それを省みるスタンスが弱まっている人にかぎって、「愛」という言葉を自分の正当化のために使うことに躊躇がない。その種の愛における錯覚ほど害の大きなものはない。


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