諏訪の御柱祭と、森村泰昌さんの表現に通じるもの

諏訪の御柱祭と、現在、恵比寿の写真美術館で開催中の森村泰昌展。一見まったく違うもののように見えるが、私のなかで一つに結ばれているものがある。

森村さんの作品は、写真や絵画の作品の中の登場人物になりきるところに特徴があり、そのユニークさばかりが強調されている。

確かに森村さんの作品は、おかしく、笑ってしまう。その笑いは、その瞬間だけではなく、後になってもずっと心の中に残るのだが、飽きのこない笑いって、めったにない。なにゆえに、そのように彼の作品には、”重層的な笑い”があるのか。

一つ言えることは、森村さんの作品は、笑いにつなげていくための周到な準備が凄すぎる。その狂人めいたマニアックさを感じる時、さらに笑ってしまう。

ともかく、作品のディティールの作りこみが徹底している。この情熱はいったいどこから来るのかと途方に暮れるほどだ。

 彼の「笑い」は、“おふざけ”とか、“悪のり”など、自分を安全圏において他人を巻き込む、どこかいびつな笑いでは決してない。正々堂々と、バカバカしいほど自分が真面目に取り組んだ末の、笑いである。

 今回の展覧会で、森村さんは、細江英公さんが撮った一連の三島由紀夫になりきっていた。風の旅人の次号でも、細江さんのルッカでの展覧会会場を作品として取り上げ、その中で三島の写真を紹介することになっているので、森村泰昌展の入り口を入ってすぐ、森村流の三島が並んでいてびっくりした。そのことを細江さんに伝えると、「ガハハハ」と笑いながら、「森村君は、愉快だけど、真面目な人だよお、僕は、自分の写真をああいう風に使われるのは、他では許さないけれど、彼は特別だよ。彼は、事前に僕のところに作品をもってきて、きっちり挨拶して、真面目に説明して、僕はとても納得したから、OK,どんどんやってくれと激励した。すると彼もとても喜んでねえ・・。」と言っていた。

 森村さんは、おそらく人間関係においても、作品づくりで垣間見せているような生真面目さを、発揮しているのだろう。

 森村さんの作品は、現代アートの中で、コンセプトばかりが先に立って下手な仕事をカムフラージュしているものと、同じように扱わることがあるが、とんでもないことだ。彼の作品は、メッセージ性も強く打ち出されているので、コンセプチュアルなものだと思われるふしがある。

しかし、もっとも大切な部分で違っている。

それは、「私」の捉え方だ。

現在、巷に溢れている表現の多くは、コンセプチュアルであれ、そうでないものであれ、「私」を中心にしている。「私」が、対象をどう見るか、という分析発表の場になっており、対象を愛しているかどうかは、別問題になっている。

森村さんは、間違いなく、自分が作品にする対象を深く愛しており、そのことがすごく伝わってくる。

しかし、森村さんもまた近代人の一人であり、多くの近代人がそうであるように、いくら他者を愛そうとも、そのことによって自意識を滅却しきれない。他を愛するあまり自分のことを完全に忘却できるところまで、他者を愛しきれないのが近代人だろう。森村さんは、そのことに自覚的で、かつ誠実で、ぎりぎりの選択として、自分が愛する対象と自分を同化させる。そうすることによって、自己と他者を分裂させることなく、双方を愛することができる。作品の根元に愛があるから、対象を決して疎かに扱わない。誠心誠意こめて、おどろくべき正確さで精密な技を駆使し、作品を完璧に作り上げるのだ。

世の中に溢れる多くのコンセプチュアルな作品は、対象に対する敬意が感じられない。それを作る「私」のことばかりが前面に押し出される。だから、その種のものは、ファッションと同じ傾向を持つし、ファッションとなじみやすい。そもそもの動機と発想が、「私を見て!見て!」だから。

森村さんの仕事は、ぱっと見た感じがコンセプチュアルなので、そういう風に捉えられるかもしれないけれど、その本質は、生真面目な職人仕事なのだ。

 生真面目な職人の仕事は、素材(対象)と対話し、素材(対象)に敬意を抱き、素材を生かす技術を厳粛に身につけ、その素材と自分を一体化させるように努めながら、その時に自分が置かれた状況(気候、風土、使われる環境etc・・)に応じて自分なりの工夫を付け加える。それは、素材を愛するということでもある。そのように愛することで、自意識は自然と滅却される。

 これは、諏訪の御柱祭で感じたものにも通じるところがある。

 一見、派手に見える木落としの背後に、職人たちの緻密な技がある。自分を見て!見て!と、ひとりよがりに目立とうとするパフォーマンスは認められない。ましてや、下手な芝居(技術)をごまかすために、奇をてらったり、わざとずっこけたりして、注目を浴びようとしたり笑いをとるというテレビ的な姑息な手は、絶対に使わない。

 祭りと、本物の表現は、きっと深いところでつながっている。

 世界への敬意、簡単に手が届かない対象への愛。だからこそ、安易な態度で対象を損なわないように、厳かな気持ちと、配慮と技術の積み重ねが必要になる。それらは全て、自己主張とは真逆の、自己滅却につなげていく重層的なプロセスであり、だからこそ、祭とか表現という自己滅却の「装置」が生まれる。その「装置」に触れるものもまた、その瞬間、自分が悠久の時間のなかに存在していることが、否が応でも意識させられ、「私」へのこだわりが消失していくような感覚になる。「私」を主張させるのではなく、「私」を無化させ、宇宙的な大きな流れへと溶け込ませるもの。表現も、祭も、ルーツは、そうした装置だったのだろうと思う。