諏訪の御柱祭(下社)に参加して

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*木落しの坂を、曵き子達が、降りて行くところ。写真後方が観客席。曵き子は、その手前のスペースの特等席に群がる。




諏訪の御柱祭から帰京してすぐ、次号の校正刷りが上がって来たりして、落ち着いて祭りを振り返る事ができなかった。

 自分が寅年ということもあり、寅年と申年にしか行われない諏訪の御柱祭に、今年はぜひ行きたかった。その願いが適っただけでなく、地域の人達と行動をともにして話を色々聞きながら祭りに直接参加できたことで、祭りを様々な角度から堪能することができた。

 一般的に諏訪の御柱祭は、山から転げ落ちる巨木の猛々しさや、危険を顧みずに木にまたがって斜面を滑り落ちる人達の勇壮さ、さらに、木から人々が振り落とされるスリル感ばかりがメディア等で伝えられるが、その背後にある人間達の精密な取り組みを知ったことの方が、自分にとっては収穫だった。

 山斜面を激しく滑り落ちる巨木にまたがる人達は、長年、地域社会に貢献し、人望のある人に限られる。若い頃から消防団員として地域に貢献したり、地域のイベントに積極的に協力し、ポイントを積み重ねてきた人達だ。自分のことばかり優先して生きてきた人は、祭りという華々しい舞台を利用して目立つという虫の良い事は許されない。

 また、暴れ馬のようになった巨木から人が振り落とされるのは、巨木を滑らせるルートの選定が悪かったり、前後のロープの調整が悪くて木が跳ね回ったり回転するからであり、見事に調整されたものは、木がきれいに落下するので、またがった人全員が下まで無事に辿り着けるケースもある。今回、春宮の一本は、全員がまたがったまま、かなり遠いところまで滑り落ちた。そういう場合、ハプニングが起きないので見た目には地味であるが、最大の賛辞を得ることができる。都会でテレビを見ている人が「ウォー」と歓声をあげるような混乱状態は、一見、盛り上がっているように見えるが、実は、恥ずべきことなのだ。

諏訪の御柱祭は、山の斜面を滑り落ちる「木落とし」が有名なので、このシーンが祭りのイメージになっていて、私も行く前はそう思っていた。また、実際に現地に行く観光客は、木落としの坂の正面の少し離れたところに設置された観覧用のスタンドに座って待ち続けるだけなので、そういうものだと思って帰っていくだろう。

しかし、実際には、祭りの大半は、あくまでも地道に、長さ17メートル、直径1メートル、重さ10トンを超える巨大なモミの木を、人々が力を合わせて曳いていくところにある。

朝6時50分に諏訪の春宮に集合して、ひたすら歩き続けて、巨木が置かれている「棚木場」までいき、そこで曵行開始の神事が行われ、出発する。

 楽しいのは、老人、子供、女性もいる木遣り衆が、士気を高めるために、甲高い声で、木遣り唄を鳴きあげ、100メートル以上にもなる曳き縄に群がる私たち曳き子が、力を合わせて、木を曳いていくこと。とはいえ、私たちは、ただ参加しているだけで、ベテラン達が、様々な調整をしながら木をコントロールしている。

少し曳いて、すぐに止まり、木遣り唄が、鳴かれる。

「ヤァーレー氏子の皆様 長の道中 御苦労だ 無事に曳きつけ 万々才」

それに対して、曳き子が、「ヨーイサ ヤレヨーイサ(エーヨイテコショエーヨイテコショ)」と応える。

道幅は2〜3メートルくらいの狭さなので、曳き子でいっぱいになって、観光客のためのスペースは、ほとんどない。曳き子がひしめき合いながら、巨木を曳いていく。

そして、ようやく「木落とし」の場所に差し掛かるのだが、そこからが大変。巨木を曳く者たちは、木よりも先に縄を曳きながら坂を下るのだが、平均斜度35度で、場所によっては、90度の窪地のようになっているところもあり、足元を見ていないと危険。しかも、曳き子の数が多すぎて、転んだりしたら大勢の人に踏みつぶされてしまいそう。

それでも何とか坂を下りきり、御柱を曳いてきた私たち一般の曳き子は、斜面の真下に陣取って、木落としの瞬間を待つ。木を曳いた者だけに与えられる特権的な時間だ。

でも、それからが長い。巨木に乗る氏子の挨拶があり、木遣り衆が「天下の木落とし、お願いだ〜」と鳴く。そのあいだに、巨木の周辺では、安全に事が運ぶように緻密な調整が計られているのだ。

そして、斧係が斧で御柱の後ろの追い掛け綱を切って、さらに前方の元綱が引かれて、最初はゆっくりと滑り、途中から一気に加速して、ドスンと、下に突き刺さるような感じで終わる。

丁寧に時間をかけて愛撫して、焦らしに焦らし、これ以上はもうダメと高まったところで、一気にズドン。なるほど、この祭りは、巨木を男根に見立てた豊穣の祭りでもあるのだなあと、某友人の作家が口にしたが、納得した次第。となると、やはり巨木が途中で暴れ馬のように引っくり返って、人間たち(精子)が、最後まで到達することなく周辺に飛び散ってしまうようでは情けない。

最大の見せ場である木落としの局面以外でも、人間達の精密な技が発揮される。

たとえば道中に大きな曲がり角があるのだが、まっすぐで長く重い巨木が通り抜けることは簡単ではない。そうした時、昔から継承されてきた土木技術がいかんなく発揮される。こうした祭りを行い続けることで、太古の昔から延々と伝えられて来た技術を、さらに未来へと伝えて行くことができる。

祭りに参加することで、自分が悠久の時間のなかに存在していることが、否が応でも意識させられ、「私」へのこだわりが消失していくような感覚になる。「私」を主張することだけが目的の単なる目立ちたがり屋が巨木にまたがることができないように、祭りは、「私」を無化し、人々を宇宙的な大きな流れへと溶け込ませる装置だと感じ入った。