HUMAN REALITY〜色即是空〜

今日の地球上の破壊や虚無は、他の何かの備えや過剰と裏表である。  

 第30号 ホームページ→http://www.kazetabi.com/

 2/1に発売される「風の旅人」第30号で、「われらの時代」というテーマが終わり、大竹伸朗さんに制作していただく表紙は最後になる。次号から「永遠の現在」というテーマのもと、望月通陽さん制作の表紙に変わる。

 その節目にあたる今号は、20世紀に支配的だった価値観を俯瞰できるものにしたいと考えて編集した。

 巻頭には、ネバダ州の核実験場の写真。広島に原爆を落としたエノラ・ゲイが核弾頭の搭載を行った場所だ。それに続くのがラスベガスの写真。19世紀まで荒野にすぎなかったラスベガスは、ネバダ核実験場から、南東に僅か105kmしか離れていない。105kmというのは、東京駅から熱海駅までの距離とちょうど同じだが、その至近距離のところで驚くべき回数の爆破実験が行われていた。

 原爆の力にすがることで国家の安心立命をはかる。そういう意味で原爆は、20世紀後半の「神」と喩えることができる。核実験が盛んになる頃、ラスベガスのホテル経営から表向きにマフィアが手を引いてから、ラスベガスは、賭博よりも華々しいアミューズメントパークの装いを強めていくのだが、古今東西、聖地と歓楽は一体化もしくは隣り合って存在しており、ラスベガスもまた例外ではなかった。

 そのラスベガスに、2005年、原爆博物館がオープンした。そこには、 大気圏核実験の様子を映像と振動と風でリアルに疑似体験できる「グランドゼロシアター」というものまであるらしい。この博物館の土産物は、原爆のキノコ雲を描いたマグカップや帽子やキーホルダーなどで、そのことに対する批判もあるらしいが、消費者の多くが求めるので仕方がないと説明されている。

 原爆のキノコ雲も、原爆実験によるクレータも、おぞましさのなかに美しさを感じる。それは、原爆が引き起こす現象が核反応をはじめとする宇宙の摂理を反映したものだからだと思う。同じ宇宙の塵から誕生した人間が、それに心惹かれるのは、むしろ自然なことかもしれない。

 キノコ雲は、おそろしく美しく、その「畏れ」を、宇宙の摂理そのものに向けるならば、その前で人間は厳粛にひざまずき、謙虚にならざるを得ない。

 しかし、キノコ雲を、土産物のように自らの手中で自在に扱えるものと錯覚し、それを自分の都合で利用して他者を威嚇したり攻撃しようとする意識が芽生えてしまうところが、自我というものを肥大させた人間の性なのだろう。その自我に基づく行動を正義と結びつけて正当化することが、20世紀の人間が巧みに発達させた思考だったのではないか。

 第30号で核実験場やラスベガスの写真とともに紹介するのは、ヨーロッパやアジアの森林破壊現場だ。近年、トウモロコシやパームオイルなどから作るバイオエタノールが、再生可能な自然エネルギーであるこや、燃焼によって大気中の二酸化炭素量を増やさない点から、新たなエネルギー源として注目を浴びているが、その生産過程全体において、森林破壊を伴うことや、食料用作物の耕作面積が急激に減らされていることを無視するわけにはいかない。また二酸化炭素の吸収や保水力に優れた森林の減少が地球温暖化にもっとも大きな影響を与えると指摘する研究者もいる。

 今日の地球上の破壊現象は、他の何かを守ったり作るために成されている。現代人は、二つの価値観を天秤に乗せて、今の自分たちに都合の良い一方を選ぶ時、もう一方を簡単に切り捨ててしまう傾向にある。

 そうした目先の分別によって、浮かれて作られるものが増えるほど、切り捨てられるものの傷口が広がっていくのが現在日本の風景だ。

 それが良いとか悪いとかではなく、私たちがいったいどんな価値感を優先して生きているのかということは、写真を見れば一目瞭然だろう。

 その価値感の総合が私たちの社会であり、政治家だけを批判しても何にも変わらない。誰か他人を批判している時は、自分たちのなかに巣くう不気味なものの正体から目を背けることができるかもしれないが、本当に不気味なものは政府の動きではなく、自分たちの心なのだ。

 以上の展開を締めくくるのは、小林正典さんが撮ったマザーテレサだ。マザーテレサが行ったことは、「弱者救済」などと安易にスローガン化できるようなことではない。死を待つ人を健康な身体にして社会復帰させたり、施しを与えることではないのだから。

 マザーテレサは、物質的な貧しさよりも心の貧しさの方が深刻であると訴え続けていた。とりわけ先進国でそれが目に余る、豊かな国ほど飢えが目立つと。

 物質的に豊かな国ほど、「有り難み」が欠乏している。周りの人たちに対してもそうなってしまうし、生きていることにさえ有り難みを感じられない。だから、常に飢えて何かを渇望している。

 格差社会をアピールするのも、この時代の正義感だからだろうが、物質(お金)が多いか少ないかが人の幸福の全てを決めてしまうかのような報道が多くなりすぎると、物質的に満たされている人が安心して、心の貧しさの深刻さから目を逸らしたり、物質的に乏しい人が、自分の心の豊かさに気付けなくなる。

 20世紀から21世紀になり、表面的な現象は変化を繰り返すが、私たちはまだ同じ価値観のなかに生きている。それでも、価値観が少しずつ揺らいできているのは確かで、それに気付いている人もいる。

 もし、価値観の揺らぎが見えにくい状況にあるとすれば、その原因の主なものは、情報を伝える媒体の多くが、いまだ20世紀の価値観に縛られたままだからかもしれない。

                                                  (風の旅人 第30号 表3より)