子供は鋭い

 両国ので大江戸美術館で開催されている「北斎展」のことを先日のエントリーで書いたが、二日前、私の勧めで絵が大好きな私の幼稚園の息子と妻が北斎展を見に行った。

 そして、帰宅して展覧会カタログを見ながら、息子が、「知ってる? この絵のなかに、富士山が二つあるんだよ」と言う。

 彼が指差したのは、誰もが知っている「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の絵だ。

 「富士山が二つ? どういうこと?」と思い、息子が指差す部分をあらためてじっくり見ると、確かに立派な富士があって、驚いた。

 せり上がる大きな波の下に、船が見え隠れするところの波の形がまさしく富士山の形をしている。波の頭の部分のしぶきの感じも、富士の頂上付近に積もる雪そっくりだ。

 「げっ」と思って、絵をじっくり見ていると、今度は、右横の小さな富士が、波の一部のように見えてきた。

 この絵の解説は、せりあがる大きな波の「動」と、小さな富士の「静」との間のコントラストと緊張感が素晴らしいと書かれることが多い。展覧会カタログにもそう書かれている。

 しかし、北斎は、その程度の人物ではないのだ。

 「静」の富士も、大きな波の一部となって「動」になるし、動きある波も、富士のように泰然と「静」なる存在となる。

 「動」も「静」も、この宇宙では対立的に位置しているのではない。状況に応じて、その在り方を変化させて、一定の状態を保つことがない。富士もまた「動」の一部で、刻々と変化する存在である。宇宙は波であり、繰り返し繰り返し、形ある「秩序」=静と、形なき混沌=動を繰り返している。その流動的な状態を、大きな波が象徴している。

 息子に指摘された二つの富士を、じっくりと見ていると、この絵がそのようにスケールの大きな宇宙観を示しているように感じられてきた。そして、一度そういう風に見てしまうと、手前の波は、富士以外の何ものでもないという思いが強くなる。

 北斎なら、当然、それくらいのことをやるだろう。

 既に、この解釈は、誰か専門家が指摘していることかもしれないけれど、私は、息子に指摘されるまでは気付かなかった。先入観のない子供の目は、本当に鋭いなあと改めて思った。