筋立てとは関係なく

 日曜の午後、吉祥寺のバウスシアターまで行って、テオアンゲロプロスの「旅芸人の記録」を見てきた。 10/29〜11/11まで、新作の「エレニの旅」をはじめ、これまでの代表作を特集している。アンゲロプロスの作品は、ほとんど全て見てきたが、いつも濃密な気配に浸って映画の世界に入り込んで、何がどうなったかというストーリーは、ほとんど忘れてしまう。だが、強く印象に残った「場」は、鮮明に思い浮かべることができて、その一つ一つの「場」が、いつまでも自分のなかに生き続けていることが感じられる。

 「旅芸人の記録」は4時間近い大作なのだけど、二度目ということもあって、映画を見ている途中、「ここで終わっても、大きな余韻があるな」とか、「ここで終わったら、見ている人の心に負荷がかかりすぎるかな」とか、あれこれ考える余裕があった。

 映画の途中、どこかで突然終わってしまっても、テオアンゲロプロスの映画は映画として完成してしまうような気がする。彼の映画は、小栗康平監督の映画と同様、起承転結とか、クライマックスとか、エンディングといった筋立てとは無関係のところにある。どの場面を切り取っても、「世界と人間のあいだ」や「人間と人間のあいだ」が濃密ににじみでていて、その”あいだ”を生きていくのが人間の宿命という感じなのだ。

 人間世界を含む森羅万象は、原因が結果を生み、その結果がさらなる原因となり、どこかで決まりきった終わりがあるわけではなく、原因と結果の相互作用が連綿と続いていく。それらの因果の”あいだ”に人間の営みがある。そして、その”あいだ”は、様々な関係性に満たされていて、そこでは幸福か不幸かという分別すら無化されてしまう。

 アンゲロプロスの映画の「場面」で強く印象に残るのは、「人間と人間のあいだ」や「世界と人間のあいだ」の”あいだ”が象徴的に構築されているシーンだ。この人の映画においては、ヒーローと決められた特定の人間の動きが映画のストーリーになっていくということはない。動いていくのは、様々な関係性が詰まっている”あいだ”であり、「場」であり、「場」の展開こそが人間の生きる世界であり、人生なのだ。だからどの一瞬を切り取っても、そこに「人生」が凝縮している。

 それで、「旅芸人の記録」の後半、あと20分くらいの所で、ゲリラとして闘った弟が捉えられて拷問を受けたという会話がなされるところ(実際の拷問の場面は映らない)で、私は、このあたりで終わってもいいのではないかと漠然と思っていたのだけど、それから2,3分後の、姉が刑務所を訪れる場面あたりで、突然、場面が真っ黒になってしまった。なんと、上映中のフィルムが切れてしまったのだ。その後、20分ほど映写技師が修復をして、再度、上映したのだが、また1分ほどで切れてしまった。観客はまた10分ほど待たされ、係の人が、お詫びとともに「あと20分ほどかかりますので、お急ぎの方は、招待券を進呈致しますので、次回、あらためてご覧下さい」と言うので帰る人もいたが、多くの人は待っていた。しかし、さらに10分ほどして、「やはり修復は無理です。今回の上映はとりやめにします」となってしまった。映画の終わりまで20分というところまできて上映中止なのだから、一般の映画だと、観客は怒り心頭になるだろう。なぜなら、一般の映画のストーリーはラストに向かって盛り上げていくように作られていて、途中のハラハラドキドキの展開は、その演出にすぎないのだから。

 しかし、テオアンゲロプロスの作品は幸いにしてそういう類のものではなかった。どこでどう終わろうが、観る者は、映画の中に籠められた”世界と人間のあいだ”や”人間と人間のあいだ”を、映画の登場人物たちとともに生きてきたという実感があるのだから。

 そして人生もまた同じだ。どこかに特別な”クライマックス”があって、その時期を人生の最高潮と有頂天になることも、それが永遠に続かないことを考えると空しいものだし、ヒーローが勝って終わるというスカッとした終点があるわけでもない。

 一昨日、閣僚人事の発表を受けて、幸せの絶頂のように興奮してドレスアップしたご本人の喜びはわかるが、そこから滲み出るものが周りの人の心を打つものではなく、滑稽にしか見えないところに、人生の可笑しさと哀しさがある。

 人の胸に染み入る美しさとは、その類の”のぼせ”とまったく異なる位相にあることだけは確かだと思う。